歴史の小箱
(第213号) 三島に眠る掛川藩主 (平成18年2月1日号)
お城はいつも人気の観光スポットです。県内では掛川城が山内一豊により天守閣が造られ、よく整備されたことで知られています。その後、江戸時代の掛川藩主と三島とは深い縁で結ばれています。
三島の玉沢妙法華寺には、江戸中期から掛川藩を治めた太田氏歴代の墓があります。この太田氏は、和歌や江戸築城で名を知られる室町時代の智将太田道灌の子孫です。そして道灌より六代の太田資宗が、妙法華寺建立に力を尽くし、ここに墓所を定め、それ以来十一代の菩提を弔ってきました。
太田道灌は、関東管領扇谷上杉定正の家老として仕えていましたが、計略により主君に暗殺されました。その後戦国時代、子孫はある時は小田原の北条氏と手を結び、また安房の里見氏に仕えました。
道灌から四代の太田康資は天正9年(1581)、里見家の家督争いに巻き込まれ殺害され、その子重正と妹お梶は難を逃れ、お梶は修善寺加殿に身を寄せたといわれます。
その後天正18(1590)、北条氏滅亡後に江戸に入った徳川家康は、江戸城のゆかりの太田氏の子孫を探しましたが、その時当主重正が京都に出仕していたため妹のお梶が召し出され、家康に仕えることとなりました。お梶は関ヶ原の戦にお供をしたといい、この戦いに勝った家康はお梶の参陣を褒め、戦勝にちなんでお勝という名を与え、その信頼は絶大であったといいます。お勝は家康の女子を生みますが早世してしまいましたので、のちに水戸徳川家の祖となる徳川頼房の養母(生母は妙法華寺ゆかりのお万の方)になります。家康没後は、仏門に入り英勝院と号しました。
重正の子資宗は、叔母お勝の養子となり十一歳で五百石の家督を継ぎ、大坂の陣をはじめ、島原の乱平定に活躍しました。また「寛永家系図伝」三百余巻を幕府に奉じるなど文武に渡り功績を残しました。また三代家光のもとでは松平伊豆守信綱らとともに六人衆として幕政にあたりました。数度の加増の後、正保元年(1644)三万五千石の浜松城主へと飛躍的な出世をしました。
信仰に厚い資宗は、元和7年(1621)妙法華寺建立に尽力しました。また同寺覚林院は、父重正の法名覚林院日宗に因みます。 そして延享3年(1746)資俊が掛川藩五万石に移封され、明治廃藩に至るまで、掛川藩主として七代百二十余年間を治め、代々寺社奉行や、老中などにも任じられ、多くの名君を輩出しました。
本年は山内一豊にちなんで掛川城を多くの人が訪れていますが、江戸時代の掛川藩主は三島に眠っています。
(広報みしま 平成18年2月1日号掲載記事)
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