歴史の小箱
(第214号) 山本玄峰老師(1) ~白隠禅師と玄峰老師~ (平成18年3月1日号)
「駿河には、過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」これは日本臨済宗中興の祖といわれた江戸中期の禅僧・白隠禅師をたた称えたぞくよう俗謡です。白隠禅師は貞享2(1685)年に駿河国原宿(現在の沼津市原)に生まれました。幼い頃、地獄の絵解きを聞いて、地獄が怖くなり、それが動機となって出家したと言われています。
33歳で原・松蔭寺に住し、積極的に提唱を行うだけではなく、一般の人々にも分かりやす易い言葉を使って禅の普及に努めました。また「隻手の音声」など、独自の公案(いわゆる禅問答)を創案し、従前の公案体系を整理しました。
77歳の時に小さな荒れ寺を買い取り、三島・龍澤寺を現在の地に開創。全国から多くの雲水が参集し、純粋たる禅修行の専門道場として現在に至っております。
東嶺円慈・遂翁元盧らの高弟を育て、84歳でこの世を去りました。また明治17年には正宗国師と諡号されました。
一方、「白隠の再来」と称えられた山本玄峰老師は、白隠禅師没後百年近く経った慶応2(1866)年、和歌山県湯の峰温泉で生まれます。生後すぐに捨てられてしまい、通りかかった岡本善蔵に拾われたと伝えられています。十九歳の時、失明の不幸に見舞われ、これを契機に一念発起して、四国八十八箇所の霊場を巡拝します。その途中、土佐雪蹊寺で太玄和尚と出会い、この地で仏道に入ります。
玄峰老師は各地の寺で修行を重ね、龍澤寺や松蔭寺を始めとする全国各地の寺を復興し、やがて「白隠の再来」と称されるほどの高僧となり、96歳で三島市竹倉の伯日荘にてこの世を去りました。
玄峰老師が当時荒れていた龍澤寺の復興を決意する際、師である宗般老師は「石塔がひっくり返ろうが、木像が腐ろうが、そんなことに滞る白隠様ではない。」と言い、龍澤寺行きを反対しました。すると「そんなことに滞る白隠様じゃないから行くのです。」と並々ならぬ決意を表した玄峰老師を見て龍澤寺行きを許したといいます。
その後、玄峰老師は白隠禅師ゆかりの龍澤寺や松蔭寺を見事に復興し、これらの寺では今も白隠禅師の法灯を守り続けています。
(広報みしま 平成18年3月1日号掲載記事)
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