(第175号) 中世の信仰を伝える~ 光安寺の板碑(いたび)  (平成14年12月1日号)

光安寺の板碑(いたび)
 三嶋大社から東へ300メートルの信号東側の小路を北へ入ると、時宗の寺院、南朝山光安寺があります。  光安寺の成立は鎌倉時代末で、江戸時代初期まではここから東北にあたる新幹線と東海道線にはさまれた高台にあった、と伝えられています。中世の箱根越えの道沿いでした。

 さて、この光安寺に古くから伝えられているものに、板碑があります。板碑とは石製の供養のための塔婆です。鎌倉時代から室町時代にかけて主に関東地域で盛んに造立されたもので、そのかず一万以上と推定されています。  ところが、箱根山を越えて、東海地方にはほとんど見られないため、光安寺の板碑は三島市指定文化財となっています。

 この板碑は、多くの板碑と同様秩父青石と呼ばれる緑泥片岩(りょくでいへんがん)を用い、高さ約110、幅約30(センチメートル)で、延文3年の年号が刻まれていることから、1358年、南北朝時代に造立されたことがわかります。  碑の上部に大きく刻まれたサンスクリット文字は「キリーク」(阿弥陀如来の意)で、その右下に「サ」(観音菩薩)、左下に「サク」(勢至菩薩)とあり、阿弥陀三尊の形式をとっています。阿弥陀如来は西方浄土にいて、信仰すると極楽浄土へ往生できると信じられていました。鎌倉時代の板碑の多くは阿弥陀三尊の仏像の浮き彫りでしたが、時代が下るとサンスクリット語の板碑と変わっていきます。

 また、この板碑の下部にはサンスクリット語で4行24文字の光明真言が記されています。この真言は死者の滅罪に力があるといわれ、光明真言を唱えて清められた遺体は仏の光明に包まれ極楽往生できると信仰されていました。  年号の下には「逆修」(ぎゃくしゅう)と「用阿」(ようあ)が記され、生前に自分で自分を供養する逆修供養を用阿が行なったことが判明します。

 南北朝時代の極楽往生を願う信仰を物語る板碑です。
(広報みしま 平成14年12月1日号掲載記事)