(第161号) ~ボランティアの原点~ 「三島接待茶屋」 (平成13年10月1日号)

この情報は平成13年10月1日時点の情報です。

三島接待茶屋
 東海道線が開通する明治22年(1889)まで、箱根八里の山越えは旅人達にとって困難な道でした。特に晩秋から早春にかけて、峠付近では雪の日も多く危険な道程であり、旅人や荷物を運搬する馬子達の避難場所が必要でした。

 箱根峠に程近い、施行平【せぎょうだいら】に接待小屋が設けられたのは今から約180年前、文政7年(1824)のこと。公的機関ではなく、江戸の商人加勢屋與兵衛という義人が運営したのです。私財50両を投じこれを基金として、馬に飼葉を与え、冬には旅人に粥【かゆ】と焚き火【たきび】を接待(サービス)しました。茶店も姿を消す冬には寒さをしのぎ体を暖める安らぎの場だったです。

 しかし、基金は底を尽き、三十年後に茶屋は閉じられます。

 明治に入り、下総(千葉県)性理【しょうり】教会二代目会長の遠藤亮規は箱根峠に接待所の必要性を感じ、その遺志を継いだ門人達が明治12年(1879)接待茶屋を再開します。

 その後、門人の鈴木利喜三郎とその子孫が運営を引き継ぎ、一年を通し無料で旅人達にお茶をサービスし、病人や山で疲れた人々の避難場所となっていました。

 鈴木家の人々は教会からの援助が途絶えたため、箱根竹を出荷したり鶏を飼うなどして、接待を維持します。その心意気に感じた人々が、全国からお茶や茶碗を送ってきました。

 時代は徒歩の旅から車へ、石畳道から舗装道路へ変化し、利用者も減ったため、昭和45年(1970)店が閉じられ、平成5年(1992)国道拡幅工事のため建物も取り壊されてしまいます。

 明治以後百年にわたり、夏も冬も湯を沸かし、茶を提供し続けた茶釜は、今でも坂老人会の祭りで利用されていました。

 貧しい人からも、天皇・皇族からも一銭もいただかず茶を奉仕した事を誇りにしてきた接待茶屋に、ボランティア精神の原点、三島の良心を見る思いがします。

 全国的に有名だった接待茶屋の茶釜・看板・古文書・発掘された陶磁資料等は郷土資料館企画展「箱根八里」(平成13年10月27日~)で展示いたしますのでご覧下さい。
(広報みしま 平成13年10月1日号掲載記事)