(第148号) ~楽寿園の昔の姿を伝える~ 「小浜丘の図」 (平成12年9月1日号)

小浜丘の図
 今年も夏を迎えて楽寿園の小浜池では水が湧出し始めました。今から40年ほど前までは、一年中絶えることなく水が湧き、流れ出た源兵衛川では棹をさせば流されるほど水量が多かったものです。楽寿園が、日本庭園に動物園・遊園地を併設して現在のような市立公園として開園したのは昭和27年(1952)のことでした。

 それ以前は、明治23年(1890)に小松宮彰仁【あきひと】親王が別邸を造営され、池泉回遊式庭園を整備し、小松宮没後は、明治44年(1911)朝鮮皇太子李垠【りぎん】殿下の別邸となり、昭和2年(1927)に李垠殿下から、造船・海運で財を成した緒明圭造氏へ売却されています。
   戦後、三島市が日本庭園部分の土地を購入して楽寿園としたものです。

 では小松宮が整備する前の楽寿園一帯はどのような景観だったのでしょうか。写真は当時の様子を伝える貴重な絵図です。明治23年、畦柳対水【くろやなぎたいすい】が描いています。

 この絵を見ると現在の楽寿園とは相当様子が違うことに驚かれるかもしれません。小浜池はあふれるほど水をたたえ西の本覚寺裏まで水面が広がっています。二ノ宮浅間神社・白滝公園付近も水路いっぱい水があふれ、この水を利用して8台の水車が回っています。

 小浜池の北に立派なお堂が建っています。これは七面堂といわれ法華経の守り神七面観音【しちめんかんのん】が祀られていて、特に女性たちの信仰が厚かったといわれます。現在の食堂付近に建っていたものと推定されます。小松宮が別邸を造営する時この七面堂と周囲の墓地は全て本覚寺に移されました。

 また小浜池中央の堤は小浜用水と中郷用水の水源を仕切るもので、駿河五ヵ村と中【なか】の郷【ごう】(中郷西部の地域)十三ヵ村が水争いをした結果築かれたものです。小松宮はこの堤に梅や松を植え遊歩道としたのです。

 楽寿園の北一帯は溶岩台地に松林が点在する荒地でした。三島駅が開業し、周辺に家が立ち並びはじめるのはこれより40年以上後のことです。
(広報みしま 平成12年9月1日号掲載記事)