(第115号) ~元禄の頃の村~ 「豆州伊豆佐野村」絵図 (平成9年12月1日号)

「豆州伊豆佐野村」絵図
 元禄11年(1698)の、佐野の勝俣家所蔵の村絵図。山と川と道、水田と畑、神社と寺院の森、10軒ほどの民家が描き込まれています。文字は絵図上方に「相模」下に「駿河」、川には「境川」、道には「山道」、神社は「みるめ大明神」、寺院と堂には「耕月寺【こうげつじ】」「庚申堂【こうしんどう】」と読めます。これが江戸時代初期の伊豆佐野村の姿だったのでしょう。絵図周辺に相模や駿河の国名が記されていることから佐野村がまさしく伊豆の北端の村だったことが理解できます。

 江戸時代の村は、基本的な行政地区でしたから、幕府や領主は、支配地の村々を的確に把握するために、村ごとに命じて村絵図を作らせました。上の本絵図もそのような目的で、幕府・領主の要請に応じた規定の形だと思われます。

 さて、近世以後の佐野村は君沢郡に属していて、隣の駿東郡・佐野(現在の裾野市佐野)と区別するために伊豆佐野と呼ばれていました。石高は約四九〇石。はじめは幕府領、後には相模の萩野山中藩の知行地【ちぎょうち】でもありました。

 佐野は比較的大きな集落でしたから、モヨリ(最寄り)という小集落で上モヨリ・中モヨリ・下モヨリと更に三つの地区に分かれ、それぞれの集落は境川の南側に沿って、箱根の山懐【やまふところ】に抱かれるように奥へ続き、谷間の地は水田、集落上には開墾で開いた畑地が広がり、戦後はサツマイモ栽培などが盛んに行われていました。

 佐野にはサイノカミ(道祖神【どうそしん】)が多く、しかも信仰厚いところです。小正月のドンドン焼きには、モヨリの各所でオンベを立てて正月飾りを燃やす火の手が上がります。また、山の神講のある中モヨリの「やっさ、やっさ」のかけ声も勇ましい「ヤッサモチ」(正月17日)の餅つきは、広く知られるようになるました。「見眼【みるめ】神社」境内には、吉田神社の御輿を納める社【やしろ】があります。ヨシダサンの祭は裾野・御殿場までの広域で行われる疫病払いの大祭です。
(広報みしま 平成9年12月1日号掲載記事)