(第111号) ~東海道の歴史~ 『箱根坂石道の誕生』 (平成8年9月1日号)

箱根坂石道造申御入用金
 江戸時代の箱根越えの東海道は現在発掘が進められ、次第に昔の姿を現しつつあります。通称「石畳」で知られるこの道は、難所だった頃の箱根越えの旅に思いをはせることの出来る素晴らしいものです。

 この道が出来たのはいつだったのでしょう。一通の古文書から石道誕生の頃を探ってみました。

 古文書の標題は「箱根坂石道造申御入用金」で、続けて次のように記されています。

 「延宝八申年 一、金千四百六両貳歩(分)銀壱匁貳分 惣入用」は、石道が延宝8年(1680年)に出来、総額1406両余りかかったということです。

 ここで「おや?」と思うのは、石の道が慶長年間の東海道宿駅制度制定よりかなり後に出来たということです。遅れること約80年ほどですが、ではそれまでどのような道だったのか、それについても記録されています。

 「箱根道巳前ハ竹道ニ而毎年敷竹致奥伊豆壱万九千石余ニ而年々造申候処延宝八申年御公儀様ヲ以石道ニ而被仰付候……」

 つまり、江戸時代初期の道は「竹道」でした。しかし、竹を敷き詰めるということは、毎年伊豆半島一円からの労役と膨大な竹が必要となり、非常に大変なことであったため、「石道」に変えたということです。

 「石道」の効果はこれ以外にもありました。箱根の西麓は厚い関東ロームの土に被われています。これは大根やニンジン、ゴボウなどの根菜類の栽培には適していますが、道となると特別やっかいな土でした。

 ひとたび雨が降ればぬかるみ、道は急流にさらされて川のようになり、掘れてしまうからでした。旅人にとってはきわめて歩きにくい道でした。

 こうしたことも重なり、延宝年間の「石道」への改良がおこなわれたものだと思います。

 発掘された「石道」には、当時の人々の苦心の跡がそこここに見受けられます。
(広報みしま 平成8年9月1日号掲載記事)