(第28号) 米をめぐる歴史を語る ます (平成元年10月1日号)

 秋、実りと収穫の季節。一昔前までの農家の庭先では、脱穀、籾すりの終わった米を、斗ますで量り、俵に詰める作業がにぎやかに行われたものです。米作りの農家にとって一年のうちで最大のイベント。庭先には、喜びの声があふれていました。
 ところが、米を年貫(税)にしていた時代となると、こうした収穫作業にも、嬉しさの一方につらさ半分があったようです。斗ますや斗かき棒に、米をめぐる日本の歴史の一面が思い起こされます。
 ますを使って物を量る「斗・升の制度」は、大化の改新(645年)に際して、唐にならって取り入れられました。その後何度かの改革、変遷があったものの、十合を一升、十升を一斗、十斗を一石とする十進法が採用きれ、主流となりました。
 豊臣秀吉の太閤検地(16世紀末)では、京升の規格が直径4寸5分、深き2寸7分と決められ、諸国の「斗・升」の統一が図られました。江戸時代に入り、関西の京升、関東の江戸升という桝座分立の時代を経て、最柊的には京升が公定升となりました。
 こうした公定升の統一・確定のための歴史的経過の背景には、米を主食とし、米を作り、その米を主な年貢とする日本の農業や政治的事情が探く関係していました。
 江戸幕府は、年貢算定の基準に石高制を採用しました。すなわち、支配する土地(水田、畑、屋敷)から米の生産高を算出し、それを課税基準としたのでした。無論、納税は米が主となります。
 支配される者とする者、あるいは米を生産する者とそれを取る者の間に、お互いに最も大切な米をめぐっての″斗・升の攻防″が繰り広げられて来たのでした。
 ますの確立の歴史には、日本人の米にかける思いが込められていると言えるでしょう。
(広報みしま 平成元年10月1日号掲載記事)