(第34号) 三島生まれの俳諧人 孤山堂 卓郎 (平成2年4月1日号)

 江戸までの旅が徒歩で三日も四日もかかった時代に、三島のような田舎町から江戸に出るということが、どれほど大きな勇気が必要だったでしょうか。
 孤山堂卓郎という一人の男が江戸で大成し、俳句名人として一世を風靡しました。三島伝馬町(現在の大社町)出身。通称は小林久助。今回は、この人物を紹介します。
 寛政10年(1798)、久助は東海道往来の旅人でにぎわう三島宿に、酒商い小林正兵衛の次男として誕生しました。16歳のころ、志を立て江戸に遊学します。そこで児島大梅と会し、入門。当時の大梅は、大梅居孤山と号する当代一流の俳諧人でした。天保12年(1841)に大梅が没し、彼は翌13年、師の孤山を襲名し孤山堂卓郎と名乗ります。このころから幕末にかけて 『蕉風俳諧名家競』という番付表で大関にあげられるなど、卓郎は全盛期を築きました。
 江戸の俳諧で大成した孤山堂卓郎は、自らの句作や俳諧研究に励む傍ら、多数の門人を育て、後の近代俳諧に大きな足跡を残します。特に孤山堂二世を縦いだ凌頂(箕田寿平・八反畑出身)と三世の他石(贄川邦作・現在の清水町的場出身)という二人の地元の高弟が、三島やその周辺に大きな孤山堂の輪を広げました。
 三島生まれの一人の少年が生まれ故郷を後に江戸へ出立した時の緊張感は、現代の私たちには知る由もありませんが、少年の夢は見事に異郷で花開き、ふるさとに大きな実を結んだのでした。
 この少年こと後の孤山堂卓郎は、慶応2年(1866)4月16日、69歳で没し、芭蕉翁の短冊塚と師大梅の句碑の傍ら、深川長慶寺(東京)に葬られました。
 墓誌に辞世の句「やがて聞ひと声うれし時鳥」と刻まれて…。
(広報みしま 平成2年4月1日号掲載記事)