(第42号) 愛染院の遺物と堆定される 護摩石炉 (平成2年12月1日号)

 これが発見されたのは昭和47年。楽寿園の東側、愛染小路の南側入り口付近のビルの建設に際しての事でした。掘り出された石造物を前に、関係者一同は一体何だろうかと 首をひねったものでした。
 長径84cm、短径79cm、厚さ18cmの楕円形。周円部は溝が彫られ、溝に囲まれた中央楕円部は皿状に凹んでいます。ある人は 「石棺の一部ではないか」と言い、また、ある人はその形から「何か、火を焚くものではないだろうか」という説を述べました。後者の 「火を焚くもの」という説が有力でした。大きな石で出来ているので想像し難かったのですが、それは明らかに燈明皿型です。次に、これがどこで、何に使用されたかが問題となりました。
 ところで、この石造物が発見された付近一帯は「愛染院」という真言宗の寺院があった場所と伝えられていました。三島駅前の溶岩山の旧愛染院跡や、愛染小路などの地名は、そうした名残りをとどめたものです。そこで、この石の燈明皿のようなものと愛染院を関連きせ、そこで使用した物ではないかと考えてみました。
 愛染院は、室町時代には三嶋大社の別当職を務めた大寺院でしたが安政の大地震によって倒壊し、明治元年の神仏分離令に因って再建されないまま、今日に至りました。そのため、寺に関する記録は少なく、その境内や建物配置などは全くと言ってよいほど明らかではありませんが、わずかな記録に「護摩堂三嶋社社家の裏に在り…」と見つかりました。つまり三嶋大社北側の社家村(現在の大宮町)の裏側に護摩堂が在ったという記録です。とすれば、楽寿園の東側一帯もその範囲と言えます。
 護摩堂には方形の護摩壇が設けられ、中央には石の炉が据えられ、この中で乳木を焼くことで煩悩を焼き尽くすという密教独特の儀式が行われていたものでしょうか。護摩石炉ではないかという最後の説はこうして生まれましたが、結論的には愛染院の歴史と共に、今でも謎を秘めた歴史的遺物と言えるでしょう。
(広報みしま 平成2年12月1日号掲載記事)