三島の歴史について

三島のあけぼの

箱根山西麓は旧石器や縄文遺跡の宝庫です。
 山中のいたるところで古代人たちの生活を偲ばせる居住跡や石器や土器が発掘されています。狩猟・採集を生活の基盤としていた古代、箱根西麓は豊かな自然環境を整えていたのでしょう。しかし完全に定着するのにはまだ早く、山を拠点としながらも時には海や川に出て漁をする移動生活が中心でした。狩猟から農耕生活へ人々が生活拠点を山から里へと移す要因は稲作などの収穫経済にありました。
 そのためには、克服しなければならない水との戦いという難問題が立ちふさがっていました。つまり、三島には豊富な湧水があふれるほどありましたが、突然襲ってくる水害や稲作 利用のための水対策は万全ではなく、人々が安全で住める居住空間は整っていなかったのでした。
 山から里へ。三島において人々が里に移り住んできたのは水稲生活の始まった弥生時代。
 このころになると、人は水との戦いに勝利し、豊富で清潔な水辺で、三島の里の生活が繰り広げられました。

三島明神と町の発展

 稲作は人々の生活を飛躍的に発展させ、米の収穫は経済の発達を促しました。
 里は人の集まるところとなり、奈良時代には国分寺や国分尼寺が創建され、伊豆の拠点となっていきます。
 三島明神の遷宮も町をさらに発展させる要因となっています。
 伊豆一円からの信仰は、明神を核として発展を遂げつつあった三島を伊豆の都として押し上げ、三島は伊豆の宗教的中心地だけでなく、産業、文化の中心地として発展していきます。
 鎌倉時代になると、三島明神は源頼朝の加護を受け、現在のような規模となり、鎌倉へ通じる平安古道もこのころ整備されました。

三島は文化情報発信基地

 三島明神を中心として、三島の町は四方へと伸びていきます。
 いわゆる、都市的な形成発展が見られ、三島独特な町ができあがります。
 こうした背景には三島明神を中心に伸びる3本の主要街道が大きな役割を果たしていました。三島に集る主要道が運んできた全国各地の文化や習俗、物資は、発展の大きな原動力となっていたのです。
 この道を通じて三島の文化も地方へ発信されていきました。
 その代表的なものが三島暦でした。
 三島暦は暦師河合家が中世から独自に編纂し、伊豆や相模、武蔵にまで頒布していた民間暦で、その歴史性や暦としてのレベルの高さは京都の暦にも勝るとも劣らないと称えられたものです。近世、東海道の旅人が必ず買い求めたのも三島暦でした。日常の暮らしに欠かせない暦は、人々の生活を支える情報源。三島宿は情報発信基地として、大きな役割を果たしていました。

近現代の三島

 近代化を急ぐ明治時代。東海道線が三島を通らず開通すると、三島は取り残された町となりました。しかし、大正8年の野戦重砲兵連隊の誘致を始めとした人々の努力により、町は少しずつ活気を取り戻し始めました。
 その後、大正12年の関東大震災や昭和5年の北伊豆震災で大きな被害を受けますが、復旧事業により、看板建築に代表されるモダンな街に再建されます。昭和9年(1934)に丹那トンネルが開通し三島駅が開業する頃には活気溢れる街となっていました。農兵節がレコード化され大流行したのもこの頃です。
 戦後は連隊跡地に日本大学をはじめとする多くの学校が開校し文教都市となります。
 昭和30年代に入ると三島、清水町、沼津地域に石油コンビナート建設の動きがありましたが、地域住民が一体となった反対運動が実を結び、コンビナート建設は中止となります。しかし、30年代の後半には、三島市の北に多くの工場・事業所が建設され続け、地下水のくみ上げ量が増えたため、1年中枯れることのなかった三島市街地の井戸が枯れ、小浜池(楽寿園内)などの湧水源の水量が急激に減りはじめます。
 昭和44年には三島市民待望の新幹線三島駅が開業し、文字通り伊豆の玄関口となりましたが、平成に入るとバブル崩壊の影響を受け、中心商店街の衰えがこの頃から目立ちはじめました。
 しかしながら、現在では「街中がせせらぎ事業」など地域住民と協働した地域活性化を図るプロジェクトが成果をあげ、潤いのある町、自然環境や過去の歴史を受け継いだ伝統的な町として成長を遂げています。 更には自然環境への配慮を目的とした「環境先進都市」や、食を育むことにより豊かな人間関係を育てる「食育先進都市」を目指し、住民が暮らしやすい町の実現に向けて積極的な取り組みを進めております。