(第216号)山本玄峰老師【3】 玄峰老師と書 (平成18年5月1日号)

 山本玄峰老師が書を始めたのは五十代、ちょうど沢地の龍澤寺へ赴任した頃からだと思われます。静岡在住の書家・沖六鵬(おきろっぽう)氏のもとで学びました。

 現在に残る遺墨はほとんどが昭和、それも戦後書かれたものです。特に昭和二十八年に開催された米寿祝賀会以降の遺墨は、質・量ともに優れたものが多く見られます。昭和二十六年に龍澤寺住職を宋淵(そうえん)老師に譲り、心煩わされる事なく筆を揮われたのではないかと思われます。その宋淵老師によれば、玄峰老師が九十二歳のある朝に「やっと字が書けるようになったわい。わしの字は九十二以後のモノを見て欲しい」と仰られたそうです。また眼の不自由な老師は、「わしの字は釘の折れたような字だが、床の間に飾ったらちゃーんとする。書家の字は床の間に掛けると床に負けて字が死んでしまう。」とも言われ、いつも筆で字を石に刻むように、全身全霊を込めて書かれていたといいます。

母 年をかさねるほど アリガタクなる

 玄峰老師は「母」という言葉を口にしても涙ぐむような人であったといいますが、育ての母、岡本とみえ氏は幼少の芳吉(玄峰老師の幼名)に対し、とても優しかったようです。恐らく厳格な父岡本善蔵氏とは対照的だったに違いありません。その「母を想う心」がこの書に込められているようです。

 圧巻なのはご逝去の二週間前に書かれた「玄峰塔」。畳一畳分ほどもある大きさの紙に渾身の力を振り絞って書かれたものです。揮毫(きごう)の際には筆が畳にくい込んだといい、見る者はその気力に身動きできなかったそうです。

 今年は玄峰老師が旅立たれてから四十五年を迎えます。残念ながら玄峰老師の生前を知る人も少なくなってしまいましたが、「風を書く時には風になった気持ちで、水を書く時は水になって」書かれた老師の書は、今なお人々を魅了し続けます。
【平成18年 広報みしま 5月1日号 掲載記事】