(第234号)楽寿園の名宝 (平成19年11月1日号)

 「楽寿園の名宝」と聞き、何を思い浮かべるでしょうか。

 ご存じのように三島駅南口には、楽寿園として緑あふれる自然が残されています。それは、代々の所有者が大切に守ってきたからです。守り受け継がれてきたという楽寿園の歴史そのものが名宝と言えるのではないでしょうか。そして園内を彩る楽寿館、梅御殿、庭園もまた名宝と言えるでしょう。     

 ①楽寿館は、小松宮彰仁親王によって建てられた別邸で、京風建築のすぐれた手法を現在に伝える明治期の代表的な建造物であり、吟味された最高の素材とすぐれた建築技術を随所に見ることができます。内部は、楽寿の間・柏葉の間・不老の間・ホールの四部屋からなっていて、建具や金物にも趣向が凝らされ、装飾絵画はいずれ も明治二十年代の日本画壇の第一人者が描いたものです。  

 楽寿の間の装飾絵画(天袋・地袋・襖・障子の腰襖・格天井・杉板戸)は、昭和五十五年十一月二十八日に県の文化財に指定されました。  

 ②梅御殿は、楽寿館と共に築造された木造二階建ての建物です。梅御殿の杉戸絵は、平成三年三月四日に市の文化財に指定されました。杉戸絵の一つに、大瓶の中に落ちた子供を助けるために、大瓶を石で割って子供を助け出す場面を描いた『司馬温公図』(龍雲画)があります。原話は、中国の学者で『資治通鑑』を編集した司馬光の訓話を元にしています。物よりも人間の命の重みを教える教育訓話として明治時代に取り上げられました。
 
 ③楽寿園の庭園にも小松宮彰仁親王の思いが色濃く反映されています。明治・大正期の近代医学の権威土肥慶蔵が書いた『鶚軒游戯』には、「小松宮殿下」と題する章があり、別邸についての記載があります。そこには、長い年月をかけて遠国より取り寄せた由緒のあるものとして、踏石や燈籠、天明年代の京都三条大橋の石柱などのほか、江戸城建築のために寄進された石材が沼津沖にて沈没したものを引き上げて据えた庭石などが記述されています。  
【平成19年 広報みしま 11月1日号 掲載記事】