(第237号)東海道を通った人・もの【2】~将軍とお茶壺、赤穂浪士など~ (平成20年2月1日号)

 前回の朝鮮通信使に続き、将軍家・大名・お茶壺など三島宿を通った人やものについて、今も残っている資料から紹介します。

 将軍と御殿・町軒図
 
 三島宿の南に三代将軍徳川家光公が上洛するために御殿を築かせたのは元和九年(一六二三)ころのことです。場所は現在、南本町の旧社会保険三島病院跡地となっている付近です。「御殿跡之図」(江戸後期)によれば、本丸・二の丸の曲輪に石垣・土塁が廻らされ、堅固な城館の構えとなっています。江戸初期に描かれたとされる「大日本五道中図屏風」(三井記念美術館蔵)には紺と茶の瓦葺きの御殿が見られます。  
 元和の時代が終わり、寛永年間以降幕末まで将軍の上洛は行われなかったため、御殿の建物も取り壊されましたが、今も御殿川や御殿神社などの名称にその名残を留めています。  
 また、幕末に朝廷との交渉のため十四代将軍家茂公が上洛しますが、この時の宿割に使用したと思われる三島宿の町軒図が残っています。これらは本陣・脇本陣・旅籠・民家も含めて間口・奥行き・総坪数・畳数が記されており、幕末の三島宿の様子がわかる貴重な記録です。

お茶壺道中  

 お茶壺道中とは宇治(京都)で製造された新茶を毎年六月頃江戸の将軍家に献上する行事です。このお茶壺道中の権威は高く、大名の休泊より優先されています。百個余りの茶壺が江戸に送られ、その行列は人足を含め五百人以上となり、人足を出す街道筋の村や宿場は大きな負担を強いられました。  
 元禄四年(一六九一)の三島代官から問屋役人にあてた文書によれば、お茶壺道中の一行が三島に宿泊するにあたり、町の人足だけでは不足するので、周辺の村々へも応援を要請しており、受け入れ側の大変な様子が伝わってきます。

大高源吾の詫証文  

 忠臣蔵でも有名な赤穂浪士の一人である大高源吾が三島宿の問屋場で国蔵という雲助に難くせをつけられ、酒代とともに渡したとされる詫状が三嶋大社に残っています。

 詫状には元禄十四年(一七〇一)九月の日付があり、赤穂藩主浅野長矩(浅野内匠頭)が自刃を命じられた半年後のことです。  
 真偽は分りませんが、「赤穂義士銘々伝―神崎東下り」には同じ赤穂浪士の神崎与五郎が箱根甘酒茶屋でかかわった事件として伝えられています。
【平成20年 広報みしま 2月1日号 掲載記事】