(第262号)中川宗淵老師【1】 (平成22年3月1日号)

 企画展「没後玄峰老大師50年宋淵老大師27年墨蹟展」(平成22年3月9日から6月6日)に併せ、宋淵老師についてシリーズで紹介します。

 中川宋淵老師は、沢地の龍澤寺第十世として、昭和二十六年(一九五一)から昭和四十八年(一九七三)まで住職を務めました。第九世は白隠の再来と称された高名な山本玄峰老師です。  

 老師とは、一般の住職とは違い、禅宗で雲水(修行者)を導く資格のある指導者のことを指し、禅の修行が終了した人、悟りを開いた特別な人だけに使用できる敬称で、師家とも言います。
 
 宋淵老師は、明治四十年(一九〇七)三月十九日、父・助太郎(陸軍軍医)、母・和子の長男として山口県岩国町(現・岩国市)で生まれました。名前は基。由来は台湾の基隆での妊娠によります。
 
 父が大正七年(一九一八)三十五歳で早逝すると、その後は母の手一つで育てられました。大正十二年(一九二三)東京第一高等学校へ入学、昭和二年(一九二七)には東京帝国大学(現・東京大学)文学部国文学科に入学します。  

 大学のクラブ活動で禅に触れ、昭和六年(一九三一)三月十九日山梨県塩山・向嶽寺の勝部敬学老師に就き仏門に入ります。母は、それまでエリートコースを歩んでいたわが子の思いがけない出家に悲観落胆したそうです。  

 出家後は、向嶽寺から歩いて四、五時間の大菩薩峠に何度もこもり、木食の修行を重ねました。木食とは、一日一食で、火を用いず、木の実や草だけを食べて修行することです。大菩薩峠は、甲府盆地を囲む山々の東側にある標高一八九七メートルの峠です。『大菩薩峠』という長編歴史小説もあり、著者の中里介山とも交遊がありました。
 
 しかし、昭和五年(一九三〇)に玄峰老師との出会いにより、宋淵老師は大きな人生の転機を迎えます。玄峰老師の人間性に、次第に傾倒するようになり、ついに昭和十年(一九三五)龍澤寺への転錫(僧が師匠や修行場所を変更すること)を決意します。龍澤寺では、尊敬する玄峰老師の下で厳しい修行を積み、昭和二十六年(一九五一)四月二十五日、第十世住職となりました。  

 宋淵老師は、海外布教にも力を入れており、十三回にもおよぶ米国での布教を行いました。  

 そして昭和五十九年(一九八四)三月十一日、宋淵老師は龍澤寺にて遷化します。七十八歳でした。

「中川宋淵老師頂相」(龍澤蔵)
262「中川宋淵老師頂相」(龍澤蔵)
【平成22年 広報みしま 3月1日号 掲載記事】