(第263号)宗淵老師と俳句 (平成22年4月1日号)

 現在開催中の企画展「没後玄峰老大師50年宋淵老大師27年墨蹟展」(平成22年3月9日から6月6日)に併せ、宋淵老師の俳句について紹介します。  

 前月紹介しました沢地の龍澤寺第十一世、中川宋淵老師は、学生時代から俳句に親しみ、大学時代は俳聖・松尾芭蕉を研究していました。出家後も句作活動は続き、山梨県塩山(現甲州市)の向嶽寺で修行する傍ら、昭和六年には俳人・飯田蛇笏(一八八五―一九六二)に入門し、蛇笏の主宰する『雲母』の同人となります。  

 ちなみに飯田蛇笏は明治から昭和にかけて活躍した俳人で、高浜虚子の『ホトトギス』に参加し、大正初期に俳誌『きらゝ』の撰者に迎えられ、後に『雲母』を主宰、芭蕉を師と仰ぎ、山梨にあって数々の佳句を生み出しました。  

 昭和十一年頃、山本玄峰老師と出会い、龍澤寺へ移ることとなりますが、師となった玄峰老師は宋淵老師の句作活動を必ずしも諸手を挙げて賛成していたわけではなく、「お前さんは俳人になってはいかん」という玄峰老師に対し「私は俳人ではありませぬ」と応える宋淵老師とのやりとりも伝わることから、玄峰老師は宋淵老師の将来を案じていたのかも知れません。しかしながら、宋淵老師の句風は「俳禅一如」といわれるように、俳句と禅が、渾然一体となった宇宙世界がそこに存在していたことが数々の句となりました。例えば、  

不二見えて あの世この世の 若菜摘む  

俳画「不二山」宋淵老師筆
263俳画「不二山」宋淵老師筆
 この句は「自選十句」に収められているものですが、「あの世」と「この世」という対句が「生」と「死」を表しているかのように感じられます。そして宋淵老師は「不二というと一つだという。一つというもの二つという概念があるから出てくる。二があるから一が生まれる。もともとそれ自体が不二なんです。一つだというのもダメ。只なんだ」「生と死は分断ではない。遷化、ジョイントだよ」「今、我々がこの世だと思っている、此処、この時が、実はあの世かも分からんぞ。またあの世が遠い所かと思っているかもしれんが、今此処かもしれん」などと述べています。「あの世」と「この世」、「生」と「死」、まさに一体となった世界、それが「不二」という言葉となっているのでしょう。このことは禅と俳句の関係、「俳禅一如」にもつながってくるのだと思われます。

 「不立文字」(文字にして伝えることができない)と言われる禅において、なぜ文字の芸術である俳句なのか…それは句そのものが宋淵老師の生涯を体現していたからではないでしょうか。
【平成22年 広報みしま 4月1日号 掲載記事】