(第311号)三島宿 問屋場と問屋 (平成26年4月1日号)

 四月十二日(土)より開催予定の企画展「三島宿を支えた人々 三島問屋場・町役場文書から」に合わせて、江戸時代、三島宿の中心的な施設であった問屋場に残された資料を紹介します。  

 江戸時代の東海道には五十三の宿場があり、三島宿もその内のひとつとして賑わいました。江戸時代には庶民の旅も盛んでしたが、公的な人・モノの輸送手段と宿泊場所の提供が宿場の第一の役割でした。宿泊機能は公家、大名などが泊まった本陣や旅籠が担い、輸送のための人や馬を周辺の村々の住人が提供しました。  

 この人馬が集まったのが問屋場で、隣の宿場から送られてきた荷物などを受取り、次の宿場まで運びました。写真【1】は初代広重の五十三次を描いた浮世絵ですが、藤枝宿の問屋場の様子が取り上げられています。半裸の人足が馬に荷を付けたり、二人がかりで荷物を肩に掛けたりしており、その横で帳簿のようなものを持った男性が確認作業をしています。右端が問屋場で、帳場の床が高くなっています。これは乱暴な武士がすぐに入ってこられないように、あるいは、馬に乗り降りやすいようにするためだったと言われています。  

写真1東海道五十三次の内 藤枝 人馬継立 初代広重画
写真1東海道五十三次の内 藤枝 人馬継立 初代広重画

 問屋場は宿場に一、二ヵ所あり、三島宿では現在の市役所中央町別館のところにありました。問屋場にはその責任者である問屋、補佐役の年寄をはじめ、帳付、馬指、 人足指などの人が詰めていました。  

 問屋は、江戸時代の初めはその地域に根を張る土豪が世襲することが多く、時代が下るにしたがって複数の有力者が交代で勤めるようになったようです。背景には問屋の経済的な特権は次第に縮小し、反面、業務は多忙になり、宿場の財政も悪化していったことがあげられます。  

 三島宿でも当初は一つの家が長期間問屋を勤めましたが、寛文七年(一六六七)から三島宿全体が問屋を勤める役割を引き受け、本陣を勤めた世古氏、樋口氏などの有力者が交代で問屋となるようになりました。写真【2】はその経緯が記された古文書で、宿場から以前の問屋、神戸佐左衛門へ問屋屋敷などの代金として金三百七十五両などが支払われた際の証文です。

写真2問屋壱巻永代売渡申証文之事
写真2問屋壱巻永代売渡申証文之事
【平成26年 広報みしま 4月1日号 掲載記事】