(第316号)幕末の三島宿-遊撃隊の奮闘- (平成26年9月1日号)

 今回は、幕末から明治の初めにかけて三島宿で起こった出来事について紹介します。  

 慶応三年(一八六七)十月に徳川慶喜が大政を奉還し、江戸幕府の廃止と新体制の成立が決定します。翌年一月に戊辰戦争が開戦され、旧幕府軍が鳥羽伏見の戦いで敗れると、各地で新政府軍に抵抗する旧幕府勢力が戦いを繰り広げました。そのため、交通の要である東海道の宿々も緊迫した状況にありました。  

慶応四年(一八六八) 四月、旧幕府勢力により構成された三百人程の遊撃隊が、真鶴に上陸してきました。彼らの目的は、小田原藩の大久保家や、伊豆の韮山代官江川 英武を説得し、徳川家再興のための挙兵に協力を得ることでした。しかし、これはかなわず、彼らが加勢を募ろうと考えていた駿河の諸藩はすでに官軍に従う意思を示していました。  

その後、徳川家からの使者や、沼津藩からの説得もあり、遊撃隊は沼津(香貫)で待機していました。そこへ、江戸(上野)寛永寺における旧幕府勢力と官軍の開戦の一報が入ります。五月十八日、遊撃隊は江戸へ向けて沼津を出立し、三島宿を訪れます。  

遊撃隊の宿泊記録
遊撃隊の宿泊記録

三島宿では、本陣世古六太夫をはじめ、問屋役人一同が遊撃隊を千貫樋まで出迎えています。これは、宿場には徳川家康以来幕府に恩のある人が多かったためといわれています。  

遊撃隊の到着に、三島宿の住民は今にも戦争が起こると動揺し、家財道具を持ち遠い村へ逃げる者や、山中へ逃げる者、新町橋の下に隠れる者など大混乱しました。三島宿には遊撃隊が宿泊した記録も残っています。  

当時、三島宿へは官軍方も詰めており、大社近くに新しい関門ができていました。そのため、遊撃隊は三島宿を通過することができず、三嶋大社の大鳥居に大砲を縛りつけて威嚇をするなどの騒ぎがありましたが、宿内にさほど被害はありませんでした。  

明治初期作成と思われる三島宿絵図
明治初期作成と思われる三島宿絵図

その後、遊撃隊は、箱根戦争で敗れ、熱海の網代まで退却します。その後、奥羽越列藩同盟に参加し、函館戦争へと向かいます。  

江戸幕府崩壊から明治政府樹立までの内乱では、中央の政局だけでなく、時代を憂う若き武士たちも、各地でその流れに巻き込まれていきました。

【広報みしま 平成26年9月1日号掲載記事】