平安・鎌倉古道

 延暦21年(802年)正月、富士山が噴火しました。平安時代に起こったこの大噴火により、それまで箱根越えの道として使われていた「足柄路」が塞がってしまいます。足柄路は現在の長泉町・裾野市・御殿場市を通り足柄峠を越える道です。通行できなくなった、この足柄路に代わり開かれたのが「箱根路」、すなわち現在「平安・鎌倉古道」と呼ばれている道です。この道は三嶋大社から北へ向かい、願成寺、小沢、元山中を通って海の平から湖畔に出るルートをとります。翌年、足柄路は復旧し、再び通行できるようになりましたが、箱根路は険しいが距離が短いなど便利なため、引き続き利用されたようです。
 鎌倉時代になると、京、鎌倉間の人々の往来が激しくなりました。武士たちの間では、箱根権現、伊豆山権現、三嶋明神の三社へ参拝する三所詣(さんしょもうで)が盛んとなり、便の良さや距離が近いという利点のために、箱根路の利用が進みました。源頼朝もこのルートを通り三所詣をしたと伝わっています。『十六夜日記』(いざよいにっき)の著者である阿仏尼(あぶつに)も、この道を利用したと記しており、また、時宗の開祖一遍上人一行など、仏教を布教する人々も多く通りました。平安・鎌倉古道はまさに、政治の道であり、信仰の道でもあったのです。
 南北朝の時代には、後醍醐天皇・新田義貞を中心とする南朝軍と、足利尊氏・直義の北朝軍とが激しく対立しますが、その戦いの一つ「竹の下の合戦」は、足柄路の西側の竹の下(小山町)と箱根路の西斜面を中心とした戦いでした。『太平記』には元山中周辺の古い地名「野七里・山七里・嶽七里」での激しい戦闘の様子が記されています。そしてまた、この元山中には、鎌倉時代から戦国時代まで、「山中関所」が設けられていたことが知られています。
 鎌倉時代から室町時代にかけて、平安・鎌倉古道の南側にもうひとつの箱根越えの道が開かれました。これは、江戸時代の東海道とほぼ重なる尾根道で、三嶋大社から川原ヶ谷、市山、山中新田を通り、箱根峠に至る道と推定されます。
 この新たな道は戦国時代の頃には主要道とされていたようで、小田原を本拠地としていた北条氏は、西方からの攻撃に対する守りの城を築く際に、この道を城中に取り込みました。こうして築城されたのが山中城です。山中城は、天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉の大軍の攻撃により落城してしまいますが、この時にはすでに平安・鎌倉古道はさびれていたといわれています。
 かつての平安・鎌倉古道の様子は、元山中遺跡などの遺構からうかがうことができます。
 江戸時代初めに徳川幕府が箱根旧街道を整備すると、この道を利用する人はほとんどいなくなり、地元の人がとおるだけになりました。
 平成2年7月、ゴルフ場建設にあたり元山中の山ノ神神社南側を発掘したところ、中世の古銭や銅製品、漆器、陶器などが出土し、平安・鎌倉古道が確認されました。

◆平安鎌倉古道マップ◆
平安鎌倉古道マップ

平安・鎌倉古道リーフレット