伊豆国分寺塔跡(国指定文化財「史跡」)

1 国分寺建立

伊豆国分寺塔跡
   国分寺は奈良時代に聖武天皇(在位724~749)の命により、国ごとに建てられた国立寺院である。僧寺と尼寺の二寺制をとっており、天平13年(741)ごろから徐々につくられたといわれている。これは、当時頻発していた災害、作物の不作や飢餓、そして疫病の蔓延といった世情不安を仏教の力によって打ち払い、国家鎮護と五穀豊穣を願って行われたものである。この時に下された「国分寺建立の詔」には、本尊は丈六(1丈6尺)の釈迦牟尼仏とすること、20人の僧を常住させること、七重塔を建立することなどが定められていた。
 伊豆国の国分寺は三島に造られたが、これは三島の地に伊豆国を統轄する国衙がおかれていたからである。国衙とは地方支配の拠点として各国に設置された役所であり、中央から派遣された国司らが政務を執り行う国庁などがあった場である。国衙の周囲の都市的空間が国府であり、ここに国分寺、国分尼寺は造られた。現在の三島市芝本町のあたりに国庁があったとされ、伊豆国の国分寺もこの近辺に建立されたと考えられる。しかし、その創建時期については、考古学的な資料や文献などから確認することはできていない。国分寺建立の事業はそれまでに類を見ない大規模な土木工事であったために、地方の財政負担も大きく、なかなか進行しなかったと伝えられているが、一般的には宝亀年間(770~780)にはほぼ全国的に整備がなされたようであり、伊豆国分寺もこの時期までには完成されたものと考えられる。

 

2 伊豆国分寺の位置と発掘成果

 明治時代には、伊豆国分寺の位置について、三嶋大社東側の塔ノ森とする説など諸説あったが、大正時代には三島市泉町の現伊豆国分寺付近とする説が一般的となった。この寺域には古くから8個の大きな礎石があり、かつての伊豆国分寺の塔の跡ではないかと考えられていたのである。そして、昭和31年に本格的な学術調査が開始され、この礎石が伊豆国分寺の七重塔の礎石であると確認されて、5月には塔跡として国の史跡に指定された。また、同年秋には三島市誌編纂委員会により、この塔跡を基準として付近一帯の発掘調査が行われ、塔跡の東側約130尺(約39.4m)の位置を中軸線として、南北一直線上に南門・中門・金堂・講堂・僧房が建てられていた痕跡が確認された。また、金堂と講堂との中間左右に鐘楼・経楼が、そして金堂から中門を結ぶ廻廊の存在が明らかにされた。これはいわゆる「東大寺式伽藍配置」で寺域としては、東西80間(約142.5m)、南北100間(約178.2m)の長方形に区画されている。
 8個の礎石は2列に並んでいるが、建立された当時の位置を保っているのは、北列東側の2個と南列東側の3個である。それぞれ約1.5mの玄武岩で、上面中央部に径・深さとも約10cmのほぞ穴があるが、これは柱が動かないように固定するために設けられたものである。また「心礎」と呼ばれる塔の中心を支える柱を立てる石も置かれていた。その心礎は明治時代中期に楽寿園一帯に小松宮家別邸が建った際に茶室の蹲踞(つくばい)として同邸に移され、さらにその後、東京橋場の本邸に移されたと伝わっているが、現在その所在は不明である。また、残された礎石から、塔は7重の塔で、高さは約60mにも及ぶものであったことが推定される。
 出土した軒丸瓦は、いずれも多弁八弁蓮華文で、伊豆地方の古代寺院で伝統的に使用された山田寺系に属する瓦である。なかには「花」「光」の文字が押印された文字瓦があり、「花」は瓦窯のあった伊豆の国市「花坂」の地名、「光」は国分寺の正式名称である「金光明四天王護国之寺」の一字と考えられる。出土瓦の一部が三島市郷土資料館で展示されている。