(第373号)地域の歴史 徳倉(令和元年6月1日号)
梅雨入りのニュースが気になる季節になりました。今回は徳倉にスポットをあて、水にまつわるお話を紹介します。
箱根山の西麓、大場川の上流左岸に位置する徳倉は、すでに中世成立の古文書にその名を見ることができます。「土倉」という字が用いられることもあったため、昔この地に土製の倉があって「土倉(とくら)」と名付けられ、のちに「土」字が同訓で字面のよい「徳」字に変えられて「徳倉」と記されるようになったのではないか…といわれていますが、はっきりとしたことはわかりません。
江戸時代には徳倉村として一村を成し、安倍・秋山・飯田・永井という四つの旗本の家が分割支配していました。明治二十二年(一八八九)に周辺の幸原・佐野・壱町田・沢地と合併して「北上村」になります。北上村は昭和十年(一九三五)に「三島町」と合併し、三島町が昭和十六年に「三島市」となって現在に至っています。
さて、徳倉小学校を北に少し進んだ高台に鎮座する八やおとめ乙女神社は、徳倉村を護っていた氏神神社の一つです。「八乙女」とは神楽(かぐら)などに奉仕する少女のことをいい、この社の祭神は天岩戸(あまのいわと)前の舞の披露で知られる天鈿女命(あまのうずめのみこと)とされています。
この神社の後方西側に、かつて「オミイケ(御水池)」または「神の池」と呼ばれた湧水池があり、湧口からは綺麗な水が滾々(こんこん)と湧き出ていました。大人たちは池の水を竹筒に汲んで仕事へ向かい、子供たちはもぐったり、ハヤビン(川漁の道具)でハヤをとるなどして遊んだようです。昭和となって以降徐々に水量が減り、昭和四十年を過ぎた頃に枯渇してしまったといいます。
現在は住宅街となっている徳倉の地ですが、一昔前には水田が広がっていました。そのため宮川に流れ込む「オミイケ」の水は、付近一帯の水田を潤す灌漑用水の水源としても重要な役割を果たしていました。この「オミイケ」の南側にも「丸池」と呼ばれる湧水池があり(大正の耕地整理時に埋め立てて水田となる)、同じく用水の水源の一つとなっていました。そしてこの二つの池を見守る地点には、「宮川社」という水神様を祀る社(やしろ)が鎮座していたそうです。
この宮川社は明治時代初め頃、社殿の老朽化にともなって八乙女神社境内に移されたといい、八乙女神社では、毎年七月十一日に水神様(宮川社)を含む末社九座の合併社(ごうへいしゃ)祭が執り行われています。
【広報みしま 令和元年5月1日号掲載記事】
箱根山の西麓、大場川の上流左岸に位置する徳倉は、すでに中世成立の古文書にその名を見ることができます。「土倉」という字が用いられることもあったため、昔この地に土製の倉があって「土倉(とくら)」と名付けられ、のちに「土」字が同訓で字面のよい「徳」字に変えられて「徳倉」と記されるようになったのではないか…といわれていますが、はっきりとしたことはわかりません。
江戸時代には徳倉村として一村を成し、安倍・秋山・飯田・永井という四つの旗本の家が分割支配していました。明治二十二年(一八八九)に周辺の幸原・佐野・壱町田・沢地と合併して「北上村」になります。北上村は昭和十年(一九三五)に「三島町」と合併し、三島町が昭和十六年に「三島市」となって現在に至っています。
さて、徳倉小学校を北に少し進んだ高台に鎮座する八やおとめ乙女神社は、徳倉村を護っていた氏神神社の一つです。「八乙女」とは神楽(かぐら)などに奉仕する少女のことをいい、この社の祭神は天岩戸(あまのいわと)前の舞の披露で知られる天鈿女命(あまのうずめのみこと)とされています。
この神社の後方西側に、かつて「オミイケ(御水池)」または「神の池」と呼ばれた湧水池があり、湧口からは綺麗な水が滾々(こんこん)と湧き出ていました。大人たちは池の水を竹筒に汲んで仕事へ向かい、子供たちはもぐったり、ハヤビン(川漁の道具)でハヤをとるなどして遊んだようです。昭和となって以降徐々に水量が減り、昭和四十年を過ぎた頃に枯渇してしまったといいます。
▲ハヤビン
現在は住宅街となっている徳倉の地ですが、一昔前には水田が広がっていました。そのため宮川に流れ込む「オミイケ」の水は、付近一帯の水田を潤す灌漑用水の水源としても重要な役割を果たしていました。この「オミイケ」の南側にも「丸池」と呼ばれる湧水池があり(大正の耕地整理時に埋め立てて水田となる)、同じく用水の水源の一つとなっていました。そしてこの二つの池を見守る地点には、「宮川社」という水神様を祀る社(やしろ)が鎮座していたそうです。
この宮川社は明治時代初め頃、社殿の老朽化にともなって八乙女神社境内に移されたといい、八乙女神社では、毎年七月十一日に水神様(宮川社)を含む末社九座の合併社(ごうへいしゃ)祭が執り行われています。
▲八乙女神社境内 末社を合祀する2棟の社
【広報みしま 令和元年5月1日号掲載記事】