(第379号)地域の歴史「竹倉」(令和元年12月1日号)

 今回は錦田地区のうち竹倉と、山裾に残された大きな石碑を紹介します。

 竹倉は箱根山西麓裾に位置する集落です。もとは谷田村に含まれていましたが、江戸時代に谷田村内の五集落、「谷田、御門、夏梅木、小山、竹倉」のうち、竹倉が独立して村となりました。そのため地理的には、竹 倉の周囲を谷田がぐるっと取り囲んでいるような立地となっています。

 集落としての歴史は古く、鎌倉時代の嘉暦二年(一三二七)に書かれた古文書に「やたのかうのうちたきくら(谷田郷のうち竹倉)」と見えます。箱根山から湧き出す水に恵まれた土地で、稲作・畑作を行う農村であ ったほか、著名人にも愛された温泉があることでも知られています。
 集落の後背に位置する箱根山は、昭和の初め頃まで生活に必要な秣(まぐさ)(馬や牛の飼料にする草)や薪(まき)などを採取する場所でした。近隣の村々が共同で利用し、その利用方法の取り決めなども行う、「入会地(いりあいち)」として利用されてきました。その中でも特に谷田・竹倉周辺は「谷田山」と呼ばれ、竹倉村は谷田村、中村との三ヶ村共同で谷田山を入会地として使用していました。。

 農村生活には欠かせない入会地ですが、明治時代の地租改正により官有地となり、生活に必要な秣や薪の調達に支障をきたしかねない事態となりました。各地で入会地の民有地化請願が起り、前述の三カ村も谷田山の民有地化を政府へ請願しました。一方同じく谷田山を入会地としていた梅名村ほか十カ村からも同様の請願がなされたため、その所有権をめぐってふたつの入会組が争う裁判となりました。長年の紛争を経て、明治 末年に至りようやく双方の和解が成立しました。

 この紛争と和解の経緯を記した石碑が、竹倉を流れる夏梅木川の上流に残されています。「谷田山墾田碑」と名付けられた碑文は川中の大きな自然石に彫られており、屏風岩(びょうぶいわ)と呼ばれています。この屏風岩にはほかにも、第二次大戦後の昭和二十六年、谷田・中・竹倉の共有地として長らく管理されていた土地を個人所有とし、共有地を管理する組合を解散したことを記念する「谷田山解放記念碑」も彫られています。

 地域には、このようにその土地の歴史や人々の営みを後世に伝える石碑などが多く残されていますが、開発に伴い撤去されてしまう例もあります。もしお住まいの地域に文字が刻まれた石などがあったら、一度読んで みてください。意外な歴史が見えてくるかもしれません。

屏風岩

屏風のように等幅で並ぶ屏風岩



【広報みしま 令和元年12月1日号掲載記事】