(第408号)将軍に献上された三嶋暦 (令和4年6月1日号)

 今回は、将軍に献上されていた三嶋暦について紹介します。

 旧暦とよばれる昔の暦は月の満ち欠けにより一カ月が決まったため、ひと月は29日または30日でした。これでは太陽暦の1年とずれが生じるので、その調整に2~3年に一度うるう月が設けられ、その年は1年が13カ月になりました。このような暦であったため、暦の制作には高度な天文観測やそれを基にした計算が必要でした。また、暦が朝廷で作られ始めたころはすべて漢字で書かれていました。

 これらの事情があったため、平安時代までは暦は貴族や僧侶など一部の人々のものでした。

 鎌倉時代以降、武士が政治の中心となっていき、暦の需要が増大します。地方ではより多くの人が読める仮 名暦(かなごよみ)が木版印刷で大量に作られるようになりました。これを仮名版暦(かなはんれき)といいます。三嶋暦は仮名版暦のなかでは最も古いものの一つであり、鎌倉時代には作られ始めたと考えられています。三島は幕府のある鎌倉に近く、三嶋大社は源頼朝や北条氏など有力な武士の崇敬を集めていたことがその背景にあるといわれています。室町、戦国時代には全国的に広まっていたようで、京都では暦一般を「三嶋暦」と呼ぶほどでした。

 江戸時代になると、三嶋暦は古い歴史を持つ由緒ある暦として、毎年、徳川将軍に献上されていました。三嶋暦の暦師であった河合家には多くの古文書が残されており、その中のひとつに「献上勤方覚(けんじょうつとめかたおぼえ)」という記録が記されています。

 それによると、献上の日は毎年12月15日と決まっており、それに間に合うように江戸に向かっていたそうです。  
 毎年12月8日に三島を出発し、10日に江戸に到着します。道中、箱根関所や奉行所、繋がりのある大名など、手続きやあいさつのたびに対応してくれた役人へ暦を贈っています。到着後は寺社奉行へ届出書を提出したり、持参した暦の装丁や献上台の製作を職人に依頼したりといった準備を進めます。  
 献上の日の当日は、江戸城の城門前で待機し、開門と同時に登城、若年寄の取次を経て新暦献上となります。

 その後、数日江戸で過ごしていますが、取り立てて用事はなかったようです。将軍への献上を無事すませて、ほっと一息ついていたのでしょう。江戸を発つのは19日になります。朝、寺社奉行所へ伺い、拝領品とし て銀子3枚を受取って江戸での全行程を終了します。その後の記録はありませんが、ゆっくり三島へ帰ったのではないでしょうか。

 このように、武士の社会で由緒ある暦として認められてきた三嶋暦ですが、明治時代になると社会の近代 化、西洋化の波の中でその歴史を終えることになります。

河合家文書

▲古文書「献上勤方覚」(個人蔵)

【広報みしま 令和4年6月1日号掲載】