(第233号)受け継がれてきたきた楽寿園 (平成19年10月1日号)

 今年は楽寿園開園五十五周年にあたります。かつてこの地は神社や寺院が点在する聖地でした。明治二十三年小松宮家の所有となり、その後明治四十四年李王家の所有に代わります。昭和二年緒明家の所有となり、同二十七年に市民待望の三島市立公園として開園しました。今回は楽寿園の代々所有者を紹介します。

小松宮家(明治二十三年~)  

 小松宮家は、伏見宮邦家親王の第八王子、彰仁によって創立され、王子を儲けなかったため、一代で廃絶しました。小松宮彰仁親王は弘化三年(一八四六)誕生。安政五年(一八五八)京都仁和寺第三十世の門跡に就任しますが、王政復古に際し還俗し、明治天皇の側近として軍の要職を歴任します。明治十年博愛社(日本赤十字社の前身)の初代総長、後に総裁となります。明治三十六年五十八歳で薨去されます。

李王家(明治四十四年~)  

 李王垠殿下(李垠)は、明治三十年李氏朝鮮第二十六代高宗皇帝の第四王子として誕生し、明治四十年、十歳の時に日本留学の名目で来日します。日本の皇族梨本宮方子姫(李方子)と大正九年に結婚します。昭和三十八年十一月二十二日夫婦ともに韓国へ渡り、韓国にて逝去されます。

緒明家(昭和二年~)
 
 昭和二年、緒明圭造が李王家から別邸を購入します。圭造は、明治十六年緒明造船所を設立し、財を築いた菊三郎の婿になります。  

 大正末期に李王家別邸を売却する計画があり三島町に打診がありますが、三島町は購入することができません。圭造は、東海の名園が消えてしまうのを惜しみ、一括購入を決意し、百万円で買い取りました。    
 現在の楽寿園がほぼ当時の姿で残されているのも、圭造の決断によるところが大きいといえます。

三島市(昭和二十七年~)  
 
 圭造の息子太郎と三島市の交渉が成立し、昭和二十七年三島市の所有となりました。同年七月十五日、数百人の来賓を招き、開園式が盛大に行なわれました。十六・十七日は一般にも無料開園されました。市民待望の開園だけに、開門を待ちかねた人々が相次いで入園、両日を通じての入園者は、約二万六千人にも及びました。

 「楽寿園」という名称については、旧邸宅内「楽寿の間」にちなんで命名されたものです。昭和二十七年六月臨時市議会において、市長から「楽寿園」の名称が提案された際、議員からは他の案も出されますが、原案通り「楽寿園」が可決されました。  
【平成19年 広報みしま 10月1日号 掲載記事】