(第360号)明治維新で活躍した小松宮彰仁親王の書(平成30年5月1日号)

郷土資料館(楽寿園内)では、現在「新規収蔵品展」を6月3日㈰まで開催しています。展示資料の中には、明治中ごろ、現在の楽寿園の地に別邸(楽寿館など)を造営された小松宮彰仁親王の書があるので紹介します。

小松宮彰仁親王は、維新に際して活躍し、明治時代の日本陸軍の中枢を担いました。称号を何度も変えていることもあり、小松宮の名はあまり広く知られていません。

小松宮は、伏見宮の第八王子に生まれます。仁孝天皇の猶子(養子)となり、仁和寺に入寺して親王宣下を蒙り「純仁法親王」を号します。安政五年(一八五八)九月に仁和寺第三十世門跡に就任します。

当時、皇室や宮家の跡継ぎ以外の皇子や王子の多くは寺に入る風習がありました。仁和寺は皇族が入る寺(門跡寺院)の筆頭格でした。明治初め頃までは、京都の人々は「仁和寺宮さま」と呼んでいたのです。

幕末の慶応三年(一八六七)十二月九日、王政復古の大号令に伴い、明治天皇から還俗を命じられ、「嘉彰」と称し、新政府の閣僚である議定に任ぜられます。二十二歳の若さでした。明治天皇を支える藩屏としてこの後多くの皇子・王子が還俗し、宮家の創設を許されています。

明治維新の行方に大きな影響を与えた鳥羽伏見の戦いの日(明治元年〈一八六八〉一月四日)仁和寺宮は天皇から征討大将軍・軍事総裁に任命され、錦の御旗と節刀を授けられ、新政府軍として東寺に陣を敷き、大阪に進軍しました。錦の御旗の前に、旧幕府軍は大阪へ敗走したのです。

この後、宮は明治三年 「東伏見宮」と改称されます。その後明治十五年に称号を「小松宮」、名を「彰仁」に改めています。小松とは仁和寺の寺域周辺の旧地名です。

明治時代には長く陸軍で活躍され、近衛師団長や兼議定官に任ぜられ、日清戦争の時は参謀総長・征清大総督として出征し、後に元帥府に列せられます。 

また戦争犠牲者の救護に努め、明治十年には博愛社創設に力を尽くし初代総長となります。明治二十年に日本赤十字社に改められると初代総裁となり赤十字社の発展に尽くしました。上野動物園入口ゲートへ行く途中左手に、騎乗した小松宮の銅像があります。赤十字社に貢献したことにより建立されたものです。

写真の二つの書はこの日本赤十字社総裁時代のもので、仁と平和を愛する思いと、穏やかな人柄がしのばれます。

小松宮は明治三十六(一九〇三)年二月、五十八歳で薨去され、国葬とされました。

小松宮書(1)小松宮書(2)

【広報みしま 平成30年5月1日号掲載記事】