歴史の小箱
(第363号)近代三島を作った人々(平成30年8月1日号)
今回は現在開催中の企画展から幕末・明治に三島で活躍した人々のうち、教育に関わった三人を紹介します。
【世古六太夫】 幕末の慶応四年(一八六八)五月、北伊豆を守る官軍と旧幕府方の遊撃隊が三島宿内で衝突寸前となりました。この危機から宿場を救った一人が本陣家で当時宿場の責任者(問屋役)だった世古六大夫(せこ・ろくだゆう)です。六太夫は両軍を説得して衝突を回避することに成功します。
明治に入り、宿駅制の廃止により荷物の継立(つぎたて)がなくなると、六太夫は郵便事業の基礎を築き、荷物の輸送を担う内国通運会社の経営に乗り出します。また、教育に熱意をもって取り組み、幕臣で優れた漢学者の吉原守拙(よしわら・しゅせつ)・呼我(こが)父子を三島に招き、伊豆で初めての小学校となる開心庠舎(かいしんしょうしゃ)を創設する中心となります。開心庠舎は「官立三島学校」「公立三島黌(こうりつ・みしまこう)」と校名が変わりますが、今の市役所の地に洋風建築の三島学校を建てる時は多額の寄付をおこないました。
【吉原守拙】 吉原守拙は漢学と長沼流兵学を修め、望まれて幕臣吉原氏の養子となり、山岡鉄舟や関口隆吉(後の静岡県令)など門弟が多くいました。明治維新後は三島に移住し、明治四年(一八七一)から私塾開心庠舎を任せられます。この塾は同六年に学制が発布されると直ちに公立小学校に移行しました。守拙はこの後長く訓導(くんどう、校長事務扱い)・校長として小学校教育の充実と研修に努め、教員の資質向上をはかりました。常に礼を重んじ、その人柄から「三島の聖人」と称されていました。三島学校は後に三島尋常小学校になり、明治末に二校に分かれ、三島第一尋常高等小学校・三島第二尋常高等小学校となり、戦後は南小・東小となっています。
【吉原呼我】 吉原呼我は守拙の養子で、明治初めは開心庠舎の教員でしたが、のちに足柄県の師範学校(韮山)の訓導から、韮山中学校・伊豆学校(現韮山高校)の校長となります。明治一六年(一八八三)に今の三島市役所の地に私塾中権精舎(ちゅうけんしょうしゃ)を開設し、およそ十三年にわたり男子の中等教育(漢学・英語など)を行い、俳人・実業家で清水村村長になる贄川他石(にえかわ・たせき)などの人材を育成します。当時の北伊豆では唯一の中等程度の男子私立学校でした。この後静岡師範学校教諭、名古屋幼年学校の教授を歴任します。春風の中にいるような人柄と伝えられており、門下生に慕われました。
【令和2年6月9日 「吉原守拙」項末尾の東小・南小の記述の順序を修正しました】
【広報みしま 平成30年8月1日号掲載記事】
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