(第411号)勘兵衛が見た山中城(1)(令和4年9月1日号)

 三島市民がほこる山中城跡には、その攻防を詳細に記録した大変貴重な文字史料がありま す。史料は『渡辺勘兵衛武功覚書(わたなべかんべえぶこうおぼえがき)』といい、著者は「渡辺了(さとる)」あだ名は「槍の勘兵衛」と呼称された戦国期から江戸時代前期の武将の手によるものです。本書は自らの功績を文章にして身上書とし、より良い石こくだか高を与えてくれる仕官先を得るためのものです。つまり、就職活動における履歴書のような文章でありました。

 記録によると、勘兵衛は豊臣秀吉の小田原合戦(1590年)において山中城の先せんぽう鋒を命令された中村一氏(なかむらかずうじ)に仕官しておりましたので、「一番乗り(槍)」の功名を上げるため動き回ってい ました。 

 山中に到着した一氏は、出丸(でまる)入口から十町(1090m)に陣を構え、命令どおり「仕寄(しより)」の準備をさせました。仕寄戦法は城内からの攻撃を回避して身を守る溝(塹壕:ざんごう)を谷部に掘り、敵陣に近づく戦法です。溝から出た土を「かきあげ」て防護壁を設置しながら、徐々に城の虎口(こぐち:入口)に近づいていきます。途中一町(109m)間隔に「つふら」(円ら=兵をためる広場)と「づく」(築山=見張り台)を設営して出丸虎口の手前一町(図中1)にまで進入します。これで本戦前の準備が整いました。この作戦中、鉄砲による小競りあいがあり、すでに戦闘状態にあったようです。このことから、わずか半日で落城したとの通説は誇張であったと思われます。

 29日、勘兵衛は円ら築山に立ち、虎口を観察すると、三十間(54m)の「どい」(土壁:つちかべ)に囲まれた出丸と「横かけの足場」(板がはずされた橋脚:きょうきゃく)を確認しました。大した防御施設ではないと判断した勘兵衛は、騎乗して坂を登り足場前を通過、城の端はた(図中2)ま進入することに成功します。(第412号に続きます)
渡辺勘兵衛覚書進路案

「渡辺勘兵衛覚書」進路案


【広報みしま 令和4年度9月1日号掲載】