(第415号)地域の歴史―平田―(令和5年1月1日号)

 今回は中郷地区に位置する平田についてご紹介します。

 平田は、境川の東岸に位置する地域です。東には新谷(あらや)が位置し、西は清水町に隣接します。

 「平田」の地名の由来について、『増訂豆州志稿(ぞうていずしゅうしこう)』(江戸時代に編さんされた伊豆の地誌に明治時代になって加筆したもの)では、平らな田地であったところから名付けられたと推測されています。戦国時代には、小田原北条氏の一族や家臣の所領を書き上げた史料(「小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)」)に、北条家の家臣の所領があった場所のひとつとして「平田」の名が登場します。江戸時代は、はじめ幕府領、後に小田原藩領となり、村高(一村ごとの生産性を米の生産高である石高で表したもの)はおよそ193石でした。

 さて、平田の南西部には瑞雲山吉祥寺(ずいうんざんきちじょうじ)という臨済宗のお寺があります。古くは「平吉山(へいきちやま)」と呼ばれ、鎌倉時代中頃、正嘉年中(1257~59)に創建されたと伝わっています。『増訂豆州志稿』は、もとは青木にあったものを移したと言い伝えを載せていますが、はっきりとした記録はありません。現在の吉祥寺は無居住寺院となっており、御園の蔵六寺(ぞうろくじ)の住職が兼任で住職を務めています。なお、通常の管理は地域の方が当番で行っています。

 吉祥寺には、本尊である地蔵尊とともに薬師如来像が一緒に安置されています。この薬師如来像は同じ平田村内にあった医宝寺(いほうじ)より移されたものだといわれています。医宝寺はもと真言宗の寺院で、江戸時代初期より修験寺院となり、明治初期には廃寺となっていたようです。代々修験職をつとめる榊(さかき)氏がここに住み、私塾を開いていたそうです。

 この医宝寺と関係しているのかは定かではありませんが、平田の年中行事として「お薬師(やくし)さん」と呼ばれる薬師如来の縁日がありました。薬師如来の十二神を祀る縁日で、正月・5月の12日に催されました。眼病の人には「お目玉」といって「藁包(わらづと)団子」(ワラの容器に包んだ団子)を作って渡していたと伝わっています。この縁日には夜店がでて大変にぎやかで、各農家ではお客さんを招きごちそうするなど、盛大に行われていたとも言われています  また、現在でも行われている催しとして吉祥寺では「薬師講」と呼ばれる集まりがあり、地域の方が5~6人で集まって開催しているそうです。


                             ▲吉祥寺外観

【広報みしま 令和5年度1月1日号掲載】