(第417号)勘兵衛が見た山中城(4)(令和5年3月1日号)

 歴史の小箱第414号・勘兵衛が見た山中城(4)の続きで、二の丸に敵と入り交じって侵入した後の記述になります。

 勘兵衛が記述する二の丸に入ると、目に飛び込んできたのは「鎧武者(よろいむしゃ)所々に群れ立ち」とあり、敗走する兵の中にはすでに戦意を無くして立ちつくす者もいたように感じます。

 さて、二の丸は本丸の手前にあり比較的平坦で長い曲輪(くるわ:図中1)です。通常の山城では二分割したほうが守りの観点から有効なのですが、現時点における発掘調査では、尾根を分断する堀跡は発見できていません。当時この大空間が必要だった理由を少し考えてみましょう。

 山中城廃城(はいじょう)後には、徳川家康により東海道へ変更します。ではそれ以前は峠越えの道はな かったのでしょうか。当時は山中城を造るため、あるいは小田 原城と韮山城の連絡道として、「箱根路(はこねじ)」が現在の箱根旧街道石畳(いしだたみ)の付近に整備されていました。連絡道ができれば物資の移 動は頻繁(ひんぱん)になるため、山中城は道を城内に取り込み「関所(せきしょ)」としての監視機能も担っていたと考えられます。戦国でも江戸時代でも箱根山は重要な地点であり、家康は箱根宿に、北条氏は 山中城に関所を作ったのではないでしょうか。

 さて、二の丸の記述は続きます。「かまえの戌亥(いぬい)」(北西)に「土居(どい)高き所に大杉…所より(土壁の高い所から鉄砲がたくさん撃ちかけられた)」と記しています。そこを「本丸」と勘兵衛は確信しました。二の丸の途中から本丸の大杉のところまでは記述がありません。現在は土橋(どばし)があってすんなりと入ることができますが、当時は堀底まで下りてまた上っていた可能性が高い所です。江戸時代の絵図では土橋がなく、廃城後駒形・諏訪神社の分祀(ぶんし)と同時に土橋が作られたと判断できます。

 勘兵衛が大杉のある場所に上って、矢切(やぎり:塀)の上より西側の本丸内を覗いた後の記述は次回に続きます。

勘兵衛の記述する二の丸

▲勘兵衛の記述する二の丸



本丸鳥瞰図

▲本丸鳥瞰図


※本文章は正式報告とは異なり、現時点では説にとどまります。

【広報みしま 令和5年3月1日号掲載】