(第419号)勘兵衛が見た山中城(5)(令和5年5月1日号)

歴史の小箱417号、勘兵衛が見た山中城(4)の続きで、矢切(やぎり:塀)の上より西側の本丸内を覗いた後の記述になります。
   勘兵衛は本丸内に東向きの広間を見て、その前に来る土地(来地=らい地)に約200人の敵兵を確認しました。

 塀を乗り越え十間(18m)進むと約五間(9m)ほど敵と戦闘しながら進みます。次第に「らい地」にいた兵も上段の広間へ撤退します。

▲本丸鳥瞰図



▲勘兵衛の記述範囲



 ここで勘兵衛は戌亥(いぬい:北西)の角にある山中城の最高標高地点の「段だん」(高台) と矢倉(やぐら: 物見台)について次のように記述しています。「五・六間四方に高さ二間あまり。其(そ)の上にちいさき矢倉相ひ見へ申し候(そうろう)。」つまり高さ3.6mの「段」の上に、9m×10.8m四方の平坦地があり、小さな物見台が建っていたと記しています。

 本丸の一番高い平坦地といっても山中城には「天守閣」はありません。

 戦国期の関東地域のお城は、天守櫓や石垣すら無いのが一般的です。土木技術の粋を集めて、土の造形だけで火縄銃に対応して守り抜く構造でした。

 実はここが一番重要な部分で、後に戦闘が繰り返された大坂城には後北条氏の技術である障子堀(しょうじぼり)が取り入れられ、守りに秀逸な構造は他国でも採用されたことが分かっています。

 天守閣のあるお城は、平和な江戸時代には一国一城しか築城できないため、贅を尽くして造られました。戦闘の行われなかった城は、防備は完璧でしたが、容姿は大きく派手になり実戦の行われない支配の象徴となっていきました。

 山中城の最後は、200人の兵がすべて矢倉に上がり、上と下で槍の叩き合いが行われ、やがて半数の100人ほどになります。大将と名乗る者が2人(城将と副将か)名乗りを上げ、首をうたれます。続けて矢倉には四方より豊臣方が攻め上がり、櫓は角堀に崩れ落ち終戦となります。勘兵衛の記録はこの後も続き、後続の部隊の到着時間の記録や、小田原攻めの準備を西ノ丸で行おうと進言します。

(次回の「勘兵衛が見た山中城」は422号で掲載予定)

※本文章は正式報告とは異なり、現時点では説にとどまります。

【広報みしま 令和5年5月1日号掲載】