(第17号) ふるさとの人物 「呑山・他石」 (昭和63年11月1日号)

 呑山は、本名を杉田六江といい、漢詩集『三島竹枝』を著した人物です。四十三首の詩には、呑山が愛した三島の風土・歴史・伝説などが見事に詠み込まれています。
 「言成地蔵」のように誰もが知っている伝説や、「不二(富士山)の白雪」といった三島独特の風景、「三島暦」、「国分寺」などの郷土の歴史が『三島竹枝』の代表的な題材となっています。
 呑山が三島に来たのは昭和8年のことです。呑山という人物と彼の持つ漢詩、絵画、茶道(宗編流)などの豊富な知識を尊敬する三島の門人たちの熱心な招きに応じて来たものです。呑山邸は「吟社会」という学問の場として菰池の畔に10年間ありました。短期間の三島滞在でしたが、呑山は高度な文化の種を蒔いたといえます。
 他石は、本名を贄川邦作といい、的場村(現在の清水町的場)の旧家に生まれました。実業家としての他石は、明治39年に「三島・沼津間のチンチン電車」を開通させた駿豆電気鉄道株式会社の取締役に代表され、実直で勤勉な人柄は人々の尊敬を受けていました。
 他石は、少年時代には三島の漢学者の吉原呼我の元で漢詩を学んでいた他石でしたが、明治20年伊豆学校(現在の韮山高校)に通う頃から俳句を作り始めました。俳譜の初期は稲香と号し、八反畑の凌頂こと箕田寿平に師事して、俳句誌『鳴鶴集』に句を寄せています。後、他石は小中島(本町)に住居を移し、『鳴鶴集』を凌頂から継いで主催します。
また芭蕉の研究を始めとした種々の俳譜史研究は中央俳譜でも認められるほどレベルの高いもので、多くの著作となっています
 ここで取り上げた二人の記念碑はそれぞれのゆかりの地で呑山は「三島竹枝碑」、他石は「朝夕に 見馴れて高し 富士の山」という句碑となって建っています。
(広報みしま 昭和63年11月1日号掲載記事)