(第18号) 箱根山の入山許可証「まぐさ札」 (昭和63年12月1日号)

 「まぐさ札」と称する二枚の札の寄贈がありました。一枚には表側に「歩行壱人」とあり、もう一枚には「馬壱疋」と太書きしてあります。その文字の両脇には札の発行年月の「寛政四年子(1792)六月」と「箱根山手免許」の文字が読めます。裏側には発行者の「江川太郎左衛門韮山役所」の署名があります。また、札には黒々と丸に立山の塊印も打たれていて、この札が代官所公認のものであることを証明しています。
 二枚の札は箱根山の入山許可証です。「箱根山手」は箱根山におけるまぐさ刈りの権利で、これがあれば箱根山に入ってまぐさを刈ることができました。この権利は麓の一駅五十ヶ村の人々にありました。まぐさ札を手に、ある者は歩いて、ある者は馬で山に登ったものでした。二枚の札が箱根山の歴史と民俗を語ります。
 箱根山麓の村では、箱根山をオヤマ(御山)と呼ぶ習慣があります。これは、昔から箱根山がその麓に生きる人々のかけがえのない大切な入会山だったからでしょう。
 「三島や田方の衆が、馬を引いて草刈りに、オヤマミチを通ったものだった」という昔話を、今でも西麓で聞くことができます。オヤマミチは、麓の人々の生活を支える「まぐさ道」でした。
 まぐさは牛馬の飼料として無くてはならないものです。特に馬は三島が宿場の機能を果たすための百人百疋の重要な人足要員でしたから、馬のためのまぐさ確保には最優先の配慮がなされたものです。
 また、まぐさは肥料にもなりました。化学肥料の無かった時代のことです。まぐきの緑肥は「カチキ」と言われて、稲作の最も有効な有機肥料となりました。カチキは田植え前の水田に踏み込まれたものです。
 まぐさを馬の背に、ゆったりとオヤマを下る馬方の姿が見えるようです。
(広報みしま 昭和63年12月1日号掲載記事)