(第95号) ~戦時中のくらしを語る~ 製麺機 (平成7年6月1日号)

製麺機 
米のご飯の代用食として、自家用に作るそばやうどんは、戦時中まではどこの家庭の食卓にも上っていたものです。

   また、水田の少ない畑作農村では、そばがハレ(晴れ)の食物として食されていたと聞きます。女の子の雛節句、男の子の端午の節句、村祭り、祝言に際しても、そばは親戚や近所の客をもてなすごちそうでした。祝いの席を辞して帰ろうとすると客に対して、「そばくらいは食べていって下さい。」と進めることが習わしだったという地域もあります。

   そばを食することが秋から春先にかけての寒い季節に多かったことに対して、うどんは新麦収穫後の夏に食べたものだそうです。やはり自分の家で打ち、茹でて、キリコミやブッコミなどにして食べたものです。こちらはむしろケ(日常)の食べ物だったようです。  このように、そばやうどんが各家庭で食べられていた時代には、麺を簡単に作ることの出来る製麺機が備えられ、昔から使われていたそば打ち用のキリバンや棒にとって代わりました。

   写真のような製麺機が全国的に出回るようになったのは戦時中のことでした。主食となる米の配給が遅延されたり、配給が無かったりという事態になり、代わりに小麦粉が配給されました。小麦粉は練って、この製麺機の上から入れ、ハンドルを回せば機械の前方から麺が出て来るという仕組みでした。

   このように製麺機の発達と普及は、そばやうどんなどの麺を食べる昔からの食生活と、戦時中の米不足の結果がもたらした文化といえるでしょう。

   ところで、戦時中の物資の不足は米ばかりではありませんでした。ありとあらゆる生活必需品が不足し、一般の人々の物資の確保に対する努力はたいへんなものだったようです。その当時の『静岡新聞』を見ると、毎日のように「配給便り」の記事が掲載されています。ちり紙、食用油、菓子、そのほかさまざまな配給情報が数量制限の上、地域ごとに知らされました。人々はその日の配給品の記事を見つけては一喜一憂して駆けつけたことでしょう。
(広報みしま 平成7年6月1日号掲載記事)