(第165号) ~三島と朝鮮半島の歴史(1)~ 朝鮮通信使と「唐人町(とうじんちょう)」 (平成14年2月1日号)

朝鮮通信使と「唐人町(とうじんちょう)」
 江戸時代まで、朝鮮半島(当時・李氏朝鮮国)の人々が日本人からとても尊敬されていたことはあまり知られていません。

 豊臣秀吉による朝鮮出兵により、多くの朝鮮民衆に被害を与えたり、陶工を日本へ連れてきたりして、日朝関係は悪化していました。
しかし江戸幕府を開いた徳川家康は朝鮮との親交を深めるため、使節の派遣を要請し、これに応えて慶長12年(1607)、朝鮮から使節が来日します。これを「朝鮮通信使」と呼び、江戸時代を通じて12回来訪しています。 通信使一行はおよそ四百人から五百人の大使節団でした。一回の派遣に半年あまりかけ、対応する幕府の費用も百万両以上かけたといわれ、両国にとって最大の外交行事だったといえましょう。

 通信使のトップは三使(正使・副使・従事官)であり、その下に通訳・外交官・政治家・軍人や、学者・医者・画家・奏楽師などが参加する朝鮮文化を代表するような大文化使節団でした。
 この使節がもたらす最新文化を学ぼうと、京や江戸などの宿泊所には各地から多くの文人・医師・学者達が交流を求めて集まりました。
 何よりも民衆を驚かせたのは、通信使一行の行列でした。「青道旗(せいどうき)」を先頭に朝鮮のこし輿に朝鮮の服装、珍しい楽器や音楽を奏でて進む様子は語り継がれ、記録に残されています。(写真)

 さて、三島宿での通信使一行はどのようなものであったでしょうか。世古本陣の絵図から正使・副使が最上等の部屋に一人づつ割り充てられ個人用のトイレまであったことが読み取れます。
 また、問屋場(現、市役所中央町別館)から南に入る小路を近年まで「唐人町(とうじんちょう)」と呼んでいました。職人の町の雰囲気を残す通りですが、その名の由来は、通信使の下級官達がここ一帯に宿泊したとか、あるいは、三嶋大社の前を通るのを避けて、この通りから南に入ったからと伝えられています。
(広報みしま 平成14年2月1日号掲載記事)