(第7号) 旧暦時代を代表する 三島暦(昭和63年1月1日号)

 正月、私達は新しい暦の1ページとともに新年を迎え、一年の計を立てます。太陽暦時代の私達が暦について考えるのは、この時期ぐらいのものでしょう。
 旧暦の時代、暦は現代よりももっと深く生活と結びついていました。暦の語源が日読み(かよみ)であるという説は、旧暦時代の人々が、暦に記されたその日、その日の吉 凶に運命をゆだねていたことに基づいています。「暦が無ければ夜も日も明けない」のが、昔の人の生活でした。
 したがって各時代の権力者は暦を編むこと、刊行することを特別な事として重要視していました。暦師、弘暦者、領暦者等、時代によって様々な呼称がありましたが、いつでも「暦の事に従事する者」は厚遇されてきました。三島を代表する文化財「三島暦」の暦師河合家は、全国でも数少ない中世以前の暦版元の一軒でした。
 三島暦は、旧暦時代を代表する暦です。歴史の古さは、京都で作られた大経師暦以上でした。室町時代に、都で、「みしま」は暦の代名詞だったそうです。木版刷りの良さ、細字の文字模様の美しさは、文化の中心地の京都でも称えられました。李朝の焼物の「三島手」「暦手」等の名称は、この時代の三島摺暦(印刷暦)から付けられたと言われています。
 江戸時代初期の三島暦にまつわる、一つの事件がありました。武蔵大宮の暦師二人が三島の真似暦(にせ暦)を作った為に、幕府から遠島を申し付けられたが、三島暦師の河合左近将監から犯人を自分の下臣にするという申し出によって、大宮暦師が遠島を免れたという事件です。この結果、三島暦師は後北条時代に続いて、江戸時代も暦の独占販売を許可されたのでした。伝統ある三島暦ゆえの、お上の裁定だったと言えるでしょう。
 明治5年12月3日、維新政府の太陽暦採用で、旧暦の時代は終わりを告げたのでした。
(広報みしま 昭和63年1月1日号掲載記事)