石油コンビナート反対闘争

三島市民のたたかい

 昭和38年(1963)、工業整備特別地域に国から指定された東駿河湾地区に石油コンビナート建設が計画された。

 三島市中郷地区に富士石油が日産処理能力15万バーレル(1バーレル159リットル)の製油所をつくり、そのナフサの供給をうけて住友化学が清水町にエチレン年産10万トンをふくむ16品目の石油化学工場を設立、地方で東京電力が富士石油の重油で140万キロワットの火力発電所を沼津市の牛臥(うしぶせ)海岸埋立地に建設しようという、四日市をうわまわる規模の石油コンビナート建設がその内容だった。

 計画は38年12月、三島・沼津・清水の二市一町合併促進の連絡協議会の席上、静岡県企画調整部長から突然発表された。
石油コンビナート第2次計画案

石油コンビナート
第2次計画案


宮本憲一編『沼津住民運動の歩み』(P26)より。昭和36年発表の石油コンビナート第1次案が挫折したあと、経済事情の好転、東駿河湾地区の工業整備特別地域指定などを背景に、静岡県は38年、再度の石油コンビナート計画をたてた。



石油コンビナート

三島市役所前広場の石油コンビナート

 反対市民大会 昭和39年3月26日。
 この日、富士石油製油所建設予定地で
 ある三島市中郷地区地主が署名した名
 簿を市長に手渡した。



石油コンビナート進出反対沼津市総決


石油コンビナート進出反対沼津市総決

 起大会に参加した漁民の車輌デモ。
 (昭和39年9月13日)




 石油関連企業にとって、港湾をちかくにひかえ、用水が豊富で、しかも京浜地帯にも遠くないこの地域は垂涎(すいぜん)の好条件をそなえていた。しかし、県当局と企業との一体化した誘致=進出運動にもかかわらず、三島市・沼津市・清水町住民によるコンビナート進出反対の統一行動は、その計画を粉砕した。それまでおもいのままにつきすすんできた高度成長政策下の開発計画は、王手をかけてたちはだかった二市一町の住民にはばまれたのである。

 いちはやく反対を表明したのは、さきに東洋レーヨンを誘致した結果、水不足になやみ、工場進出に疑念をいだいていた三島市民だった。反対運動をもりあげていったのは婦人連盟(婦人会)と町内会長連合会である。石油コンビナート対策三島市民協議会に、青年団や文化団体とともに参加したかれらは、公害先進地の四日市などの実態を視察して報告し、あるいは住民にコンビナート建設の賛否を問うアンケート調査をおこなって、82%が゛反対゛という結果を発表した。39年(1964)4月の婦人会・町内会長連合会合同臨時総会では、石油コンビナート進出絶対反対が決議された。
 富士石油製油所建設予定地の中郷地区農民の決起も力強かった。反対運動の先頭にたった溝田豊治は、当時の行動をこうのべている。

 「われわれ三島市の農民は、近隣の市、町の工業化による地価の値上りを羨望の目で見ていたところであり、内心喜んだが、四日市の石油コンビナートにおける公害の噂を耳にし、不安でもあった。そこで先進地見学ということになり、四日市・倉敷・千葉等へ出向き、特に四日市ゼンソクを目にして、公害に対する認識が芽生えてきた。特に幼児を持った婦人層は真剣になってきた。その結果、われわれ予定地農民は、種々手をつくして資料を集めて研究し、百回を越す学習会を開き、終り頃には地区の老人までが公害を話題にし、PPM等の聞きなれぬ学術用語を口にするまでになった。」
(溝田豊治「コンビナート反対闘争以後」 松下圭一編『市民参加』・現代に生きる6、所収)

 溝田は、国鉄職員の杉沢三男や主婦の赤地あさ等と組んで゛PR隊゛をつくり、自分たちの目で見てきた四日市の実情を訴え、゛お説教゛活動を展開した。こうするうちに反対の気運が日ごとにたかまり、中郷地区の人びとは39年3月11日には「この計画は地域住民になんら利益がないばかりでなく、将来に対し悪影響を及ぼすとの結論に達した。ここに全住民の意思によりコンビナート進出に絶対反対する」という決議文を市長に手渡した。ついで同月末には、建設予定地地主の95%が署名した農地不売同盟名簿を市におくりつけた。

 かれらは反対の決意を表明し、三島市民や沼津市・清水町の周辺地域によびかけた。もちろん市民も中郷の農民たちを孤立させなかった。市民協は街頭カンパをおこない運動資金を贈って激励し、これにこたえた農民は耕耘機をうならせてデモに参加した。市街地住民と建設予定地農民との連帯が成立したのである。

 反対に結集した住民の活動を報道したのは『三島民報』だった。小西政三社長はコンビナート問題に精力的にとりくんで紙面を関連記事でうめ、住民の動向や知事・市長をはじめ議員たち一人ひとりの言動を紹介した。中郷地区全戸へ無料配達した時期もある。住民はたたかう自分たちを記事で再確認するとともに、新しい情報を紙面からくみとった。大新聞がほとんど記事をのせない情勢下で゛住民の立場に立つ゛ローカル紙の本領をいかんなく発揮した。『三島民報』の意義は大きい。

 高揚する住民運動のかげで保守党議員は、しつように巻返し工作をたくらみ、静岡県当局はいやがらせと牽制攻撃をかけたが、効果はまったくなかった。
 39年5月23日、町内会長連合会・婦人連盟共催の、コンビナート反対市民大会に出席した長谷川市長は、1500人の市民を前にして、富士石油進出を拒否する声明を発表し、拍手で迎えられた。沼津市・清水町にさきがけて、建設拒否はまず三島市で成功したのである。
三島市中郷地区
農民の耕耘機部隊



    三島市中郷地区農民の決起
      農地不売同盟をむすんだかれらは、石油コンビナート反対運動の先頭にたった。
      沼津市総決起大会(昭和39年9月13日)に参加した農民の耕耘機部隊。

調査と学習

コンビナート反対運動の幟
 コンビナート反対運動の正しさを科学的に立証したのは松村調査 団の報告書だった。松村調査団は、三島市にある国立遺伝学研究 所の進言にもとづいて、39年3月に三島市に設けられた調査団 である。代表者の遺伝研変異遺伝部長松村清二理学博士の名をとってこうよばれた。ほかに遺伝研から公衆衛生学の松永英農学博士、沼津工業高校から工業化学の鳥田幸男と長岡四郎、気象学の西岡昭夫、水理学の吉沢徹の4人が参加した。調査団は、県や企業側が提出した資料について、内外の調査事例や地域の長期気象データをもとに綿密な検討を加え、5月18日、大気汚染物質・気象・植物・環境衛生への影響・用排水などについて論じた「石油化学コンビナート進出による公害問題」中間報告を公表した。公害はさけられない、というのである。
 他方、政府が委嘱した産業公害調査団の調査も4月からはじまった。黒川調査団とよばれるスタッフは、黒川真武博士以下、゛一流゛の学者十数人が名をつらね、2000万円もの調査費が用意された。調査団はヘリコプターを
飛ばし、風洞実験をおこなうなど、大がかりな調査をしたのち、7月27日に
その結果を発表した。それは、事前に措置を講ずれば公害は防除しうる、
というものだった。

 松村調査団の報告で十分学習していた住民が、黒川調査団のまやかしに気づかぬはずはなかった。報告書発表5日後の8月1日、上京した松村調査団と住民代表は、静岡県係官と通産省係官立会いで黒川調査団代表と対面した。報告書を検討し討論を期待していった地元調査団の質問に対し、黒川調査団は返答に窮し、支離滅裂な発言をくりかえすだけだった。報告書は、科学者の良心にももとる作意にみちていることが暴露された。

 保守党県会議員の某は、県議会の席上、松村調査団を誹謗(ひぼう)して「農学博士や遺伝学者にどうして大気汚染や気象学の問題、環境公衆衛生や燃焼工学の問題の正しい解明が得られるでありましょうか。また高校生のレポートの採点ならともかく、これだけの広い専門分野にまたがる問題の採点がどうして工業高校の理科の先生程度で正しく行ない得るでありましょうか」と毒づいた。しかし、住民は肩がきの権威ではなく、科学の゛真実゛をえらんだ。松村調査団の指摘の正しさは、住民の学習のなかで確認されたのである。

 その住民学習会は何回となく開かれた。学習会は人びとをつなぎ、組織をつなぎ、地域をつないで公害反対の声を一本の糸によりあげてゆく糸車の軸芯だった。隣組や職場や婦人会やPTAで学習会がもたれた。公民館から洋裁学校の教室まで会場はどこにでもある。数人の場合もあれば数百人の場合もある。参加者の誰もが見聞した事実や経験を語り、意見をのべた。住民の対話がうまれたのである。松村調査団のひとりであり、その分析結果をわかりやすく市民に伝えるために、何百という学習会に足を運んだ西岡昭夫は学習会の意義をつぎのようにのべている。
 「学習会を意識伝授の場でなくて、知識を生み出して力に変える場にしなくてはならない。参加者のひとりひとりが、自己の存在理由を大衆の中で知ることこそ、学習会をおこなう最大の目的である。」( 西岡昭夫・飯島伸子「公害防止運動」岩波講座・現代都市政策4(ローマ数字)『都市と公害』所収)

 学習会にはルールはないが、えられる知識は参加者全員が理解できるものであり、しかもごまかしをみぬく正確さをもたなければならない。文献上のかわいた知識は、住民の日常的な経験にそくして具体化されないと浸透しない。漁民ならば魚の生態をとおして公害を知る。魚のことだからこそ熱心に学習会の成果をむさぼりとったのである。魚のことを知らない講師には、聴衆がかわって答えた。学習とはたがいの知識の確認、つまり共同学習だったのである。政府調査団のごまかしをうちくだいた住民の゛科学゛はこうしてそだった。

 沼津工業高校の生徒たちは、西岡教諭の指導で鯉のぼりによる気流調査をおこなった。5月上旬の連休を中心に10日間、朝6時から夜8時まで、鯉のぼりの向きを調べた結果をもちより、地図のうえに精細な気流図を書きあらわした。別の生徒たちは、牛乳ビン100本を狩野川に放流して、汚染された排水が駿河湾に流れこむ方向をたしかめる海流調査をおこなった。このような調査と研究が大気や海水の汚染公害がないとする宣伝をくつがえしたのである。一点調査の政府調査団にくらべて、一面調査とも言える生徒たちの方法がより科学的だったといえる。

 あるいは沼津東高校の郷土研究部の生徒たちは、官庁・農協・会社などからもらい集めた資料を検討して「沼津・三島地区石油コンビナート進出計画をめぐって」というガリ版120ページの報告書を作成した。それは石油コンビナート・石油精製所・火力発電所などの既設地域の高校生徒会へのアンケートや地元住民の意見などを収録した、本格的な社会調査だった。この成果も住民学習会で報告されたことはいうまでもない。

 西岡らとともに、積極的に学習会の講師をつとめたのは星野重雄らの開業医だった。かれらは、名古屋大学公衆衛生学教室がおこなった四日市大気汚染の影響調査を学習会で紹介して、公害のおそろしさを説明した。星野医師は「公害の有無という言葉は被害者のいう言葉であり、加害者のいう言葉ではない」(星野重雄「沼津市・三島市・清水町民の勝利」武谷三男編『安全性の考え方』所収)とさけび、「人間モルモットになるな」とくりかえした。地域住民の健康をまもる医師として、四日市の二の舞をふむ危険を黙視することができなかったのである。