文豪たちとみしま

三島ゆかりの作家とその作品

俳句革新の正岡子規と相模屋

正岡子規
 明治25年10月14日、小説家の道を断念して、俳句創作に没頭することを決意した正岡子規は、箱根を下り一面のススキの山を見ながら、三島に入って来ている。
子規の日記『瀬祭書屋日記』の中に、

「三島神社に詣で相模屋に宿る」

とみえている。
 草鞋脚絆(わらじきゃはん)に風呂敷包みと杖(つえ)一本と菅笠のきりりとした風貌の若い子規は明治25年10月20日に書いた『旅の旅の旅』の旅行記の中に、

「三島の町に入れば小川に菜を洗う女のさまもややなまめきて見ゆ。『面白やどの橋からも秋の不二』三島神社に詣でて昔千句の連歌ありしことなど思い出させば有り難さ身にしみて神殿の前に跪(ひざまづ)きしばし祈念をぞこらしける。『ぬかづけばひよ鳥なくやどこでやら』」

と三島のことにふれている。
三島の宿では、

「町にむいたむさくるしき二階の部屋におしこめられる」

とあるが、江戸末期の「宿内軒並絵図」の上で実測してみると、現在の「みしまプラザホテル」の東半分が昔の相模屋ということになる。

          「市制50周年記念誌」より

チンチン電車にゆられた島崎藤村

島崎藤村
 「夜明け前」や「破戒」を書いた文豪島崎藤村が元箱根から草鞋ばきで箱根の石畳道を歩いて、三島について沼津までの路面電車にゆられたのは、明治40年6月6日のことである。
6月5日、元箱根の橋本屋から、東京府代々木に住む自然主義文学者の田山花袋に絵葉書を書いて、そのなかに、

「例の『春』の写生およそ目的を達しつつあり、明朝は草鞋ばきにて三島へ下り」

とあって、明治41年4月から朝日新聞連載の長編小説『春』の取材の旅であることがわかる。

 先に、藤村は、明治26年7月に吉原宿から、友人の明治の文学者たち、北村透谷・平田禿木・戸川秋骨などと沼津まできて、沼津から円太郎馬車にのって三島へつき、三島で昼食をすませて、箱根路をのぼっている。その頃藤村は悲恋の痛みと苦しみを友の情に救われていた。
このときの体験が小説『春』には丹念に書きこまれている。

歌人若山牧水の三島散策

若山牧水
 大正9年8月15日、沼津町在楊原村に東京から移った牧水はたびたび三島を訪れている。
あるときは、三嶋大社への参詣であり、あるときは楽寿園南側の塚田静保病院長の調合する薬の依頼であり、箱根へ杜鵑のなき声を聞きにいく途次の立ちよりであり、割烹料理屋へうなぎを食べによる等々である。
大正9年12月1日の箱根への旅の途次、紀行文『箱根と富士』のなかに、

「案外にハイカラな店飾りがあると思へば、直ぐ隣に煤びた格子に囲まれた女郎屋があるといふ風なその古びた宿場町は深い朝日を浴びて如何にも賑やかげに見えた」

と表現されている。

「野末なる三島の町のあげ花火月夜の空に散りて消ゆなり」

の三島を歌った歌は大正10年に沼津の上香貫から三島を見て歌った歌で三島に残された唯一の貴重なる歌である。  三嶋大社には三島民報が建立した牧水の歌碑がある。



紹介にあたりましては「市制50周年記念誌」を参考にさせていただきました。