清流のまちに慕情の作家たち

三島ゆかりの作家とその作品

戦後文壇の寵児 大岡昇平

 「路が交錯した林を抜けると、富士の白雪が解けた水といはれる地下水を豊かにたたえた池があり、堰から音を立てて流れ出していた。水草が一斉にたおれ伏した上を、また音を立てながら、早く流れ去った。
 水はそれから三島市を貫いた堀に導かれ、多くの工場を潤してもなほあまり狩野川に注いで海に出てしまう」

『俘虜記』『野火』の戦争体験や『武蔵野夫人』で戦後文壇に一時代を画した大岡昇平の『花影』(昭和37年作)であるが、この清流の描写は水の都を知る者としては、つとに懐かしい。

桜川並木を歩く  井伏鱒二

井伏 鱒二
 「三島の町に着くと、私たちは清冽な水流を持った川沿いに散歩して、川ばたの骨董屋に仏像がたくさん並んでいるのを見つけた」

とあって、昭和9年の8月、太宰治と元箱根から三島に下ってきた井伏鱒二が、水上柳通りの桜川の水門の南側にあった骨董屋「五味」の店でひどく驚かされて、あわてて白滝公園や浅間神社境内で一息入れて、芝本町通りから本町大通りへと歩いて、通りにあった居酒屋に入る話がある。

 これは井伏鱒二の太宰治の『富獄百景』の「あとがき」や『太宰治集上』の「解説」やその著述『太宰治』のなかに書かれていることである。

 『山椒魚』『本日休診』などで小説の名人といわれる井伏鱒二の三島を浮彫りにした文章であるが、太宰治の終生のこよない理解者であり、狩野川に鮎を追い続けた釣師であっただけに、三島と鱒二の関係も深いものがある。

三島を愛し続けた 太宰治

太宰治と坂部武郎
 「三島は、私にとって忘れてならない土地でした。 私のそれから八年間の創作は全部、三島の思想から教へられたものであると言っても過言ではない程三島は私に重大でありました」

 浪漫派と無頼の作家・太宰治は、昭和9年8月の約1ヶ月間の三島の生活を昭和16年発表の『老(アルト)ハイデルベルヒ』のなかに描いている。
 そして、三島を懐かしく思って、昭和14年6月にも三島を訪れている。

「富士の麓の雪が溶けて数十条の水量たっぷりな澄んだ小川となり、三島の家々の土台下や縁先や庭の中をとほって流れていて苔の生えた水草がそのたくさんの小川の要所要所でゆっくりゆっくり廻っていた」

と、『ロマネスク』のなかに書いている。
 昭和9年8月14日に青森の姉の小館京あての絵葉書の中に、

「三島の水は冷たくて、とてもはひれません。あすから、三嶋大社のおまつりです。提灯をさげています」

とあるが、昭和13年の『満願』はつかの間ではあるが、太宰治としては、珍しく生きる希望と、みずみずしい三島の川の流れと、人の心のあたたかさを描いた作品である。



紹介にあたりましては「市制50周年記念誌」を参考にさせていただきました。