(第227号)明治初期の女子教育のルーツ 花島家と薔薇女学校 (平成19年4月1日号)

 郷土資料館企画展「三島と女性」(平成十九年三月十八日から五月二十七日まで)にちなみ、当館近代文書の調査整理に携わる桜井先生に明治期に創設されたバラ女学校について解説いただきます。  

 当館に寄贈された花島家資料を整理する中で、花島兵右衛門が設立した薔花(しょうか)女学校、通称バラ女学校に関する資料は十九点確認されました。  

 ご存知のように花島家は花島兵右衛門の存命中に隆盛を極めますが、彼の手がけた多くの事業面の中で女子教育についてここでは取り上げてみたいと思います。  

 花島がキリスト教(プロテスタント)に入信したのは、明治十九年のことと言われますが、バラ女学校が開校するのはわずか二年後の明治二十一年のことです。花島家資料には、「私立女学校設置伺」や、「薔花女学校設立主意書」が残されており、ここから設立の意気込みを読みとることができます。  

 当時は欧化政策の推進により(私立の)女学校の設立が全国的にあったことは事実でしたが、花島はキリスト教精神に基づいた女子教育を興そうとしたのです。  

 そこには主意書にもあるとおり、家庭教育の重要性を訴え、その主体たる女子に教育の目を向け「…貞操順徳智能兼備ノ賢女ヲ輩出シ…」という理想を掲げたのです。  

 校長は彼に授洗したJ・H・バラの従妹であるリゼー・バラで、自ら校主として、そして幹事には義弟の小出市兵衛(童話作家小出正吾の祖父)を迎えました。校舎はそれまで彼が酒造業を営んでいたことから、久保町(現中央町、市役所本庁の北側付近)の自宅にある酒蔵を改造して一階を教会堂に、二階を教室としました。  

 しかしながら、当時はどの中等学校も維持するのが精一杯の時期で、郡町村連合会(のちの郡会)の資金に依存する他はない状態でした。そうした中で、花島家個人のみの経営には限界があり、彼や小出の寄付はおろか、教師も無報酬に近い状態ゆえ、わずか四年間で幕を閉じたのでした。  

 特筆すべき点は、韮山中学校で英学の重要性を訴えた仁田桂次郎を迎えたり、ロシア正教からプロテスタントに転じたばかりの鈴木範衛を漢学教師として迎えたりするなど、斬新さももちながらも入信者であったという点でした。  

 バラ女学校閉校後、花島は本格的に練乳業への道を歩み、ここで三島における女子教育は断絶してしまいます。その後、女子教育が本格的に始まるのは、明治三十四年からの三島高等女学校の開校を待たねばなりませんでした。
(伊豆の国市文化財保護審議会委員 桜井祥行) 
【平成19年 広報みしま 4月1日号 掲載記事】