(第228号)時代を駆けた三島の女性たち 近代の解放と呪縛 (平成19年5月1日号)

 郷土資料館企画展「三島と女性」(平成十九年三月十八日から五月二十七日まで)にちなみ、今回は女性史研究者の平井和子さんに解説していただきます。  
 
 明治中期になっても女子教育が低迷する中、女子高等教育の必要性を掲げてキリスト教主義による女学校の設置が始まりました。三島では花島兵右衛門が設立した薔花女学校が明治二十一(一八八八)年に開校し、県下でも先駆けとなりました。地方にあって「近代」をいち早くキャッチする人々が三島に存在した意味は大です。また、通常男性が中心になる女学校支援者の中に、間宮はまという女性がいた点も三島の特徴です。彼女は日本で最初の女性団体、キリスト教婦人矯風会にいち早く入り、禁酒・廃娼運動を展開。その三島における活動の様子が中央の機関紙に度々紹介されています。  

 さて、資料館蔵の「薔花女学校設立主意書」には、「家庭教育ノ主任タル者ハ父ニアラズシテ母ナリ」とあります。このような西洋的良妻賢母主義は、近世の武家社会で、家長である父親が子の教育や躾を担ってきたそれまでの日本に大きな変化をもたらしました。そして産業化の進展とともに「男は仕事/女は家事・育児」という 性別の役割分担意識が浸透し、女性にとって新たな〈呪縛〉ともなりました。ただし、子どもを母が自分で教育することが可能になったという点では、家庭内の妻の地位が向上したとも言えます。近代化は女性にとって〈解放〉と〈呪縛〉の両面を持っていました。  

 このような女学校で学んだ女性たちの中から、その内包された良妻賢母を疑いうる知性が育ってきました。当時開明的と言われた日本女子大へ入学しながら、その教育の限界を感じた平塚らいてうは、女性が社会へ向けて自ら表現できる存在になろうと、明治四十四(一九一一)年、女性だけの雑誌『青鞜』を創刊します。雑誌への共感は燎原の火のように広がり、その中に、らいてうの「元始、女性は実に太陽であった」に感激して参加を決意した三島出身の高田(坂本)真琴もいました。その後、彼女は婦人参政権獲得運動にまい進します。「近代」が女性には保障しなかった公民権を求めて活動をする女性たちの出現の基には、「近代」がもたらした教育の恩恵があったことも押えておく必要があります。  
 三島は「近代」をいち早く受容し、それを乗り越える女性も生み出した地として、その伝統は、戦後の庶民大学やコンビナート立地見直しなどに、女性たちが積極的に参画した歴史に引き継がれているといえましょう。
(女性史研究者・大妻女子大学非常勤講師  平井和子)
【平成19年 広報みしま 5月1日号 掲載記事】