(第242号)古代の輸送路 大場川・狩野川・駿河湾を利用した水運ネットワーク (平成20年7月1日号)

 三島市安久の伊勢堰・箱根田遺跡は、奈良・平安時代の遺跡です。

奈良・平安時代の三島  
 奈良時代は七一〇年、元明天皇が奈良の平城京に都を移した時から始まります。次の平安時代は七九四年、桓武天皇が京都の平安京に遷都したことで始まり、一一八五年、鎌倉時代の開始まで続きます。  
 当時の三島が属していた伊豆国は、奈良時代以前の六八〇年、今も清水町との境になっている境川をもって駿河国から分けられ、近年の発掘調査の成果では国庁(国の役所)は、三嶋大社の南東に置かれていたと考えられています。七四一年、聖武天皇は全国に国分寺建立の詔を発し、三島でも広小路駅西側の地に、伊豆国分寺が建てられました。伊豆国分寺の塔跡は現在も残っており、国史跡に指定されています。

伊勢堰遺跡と箱根田遺跡  
 伊勢堰遺跡(平成一九年調査)は、国内最大級の人面墨書土器(三島市指定文化財)が出土した箱根田遺跡(現在のコーエー店舗※平成20年時点)の北側にあたります。現在、遺跡周辺には河川はありませんが、両遺跡の発掘調査では、今から約一三〇〇年~一一〇〇年前の奈良・平安時代の河川跡が発見され、土器や木製品も多 数出土しました。また川岸では、収穫物を保管した倉庫跡も検出しています。  
 河川跡と倉庫跡、この二つの遺構の検出から、御殿川や大場川、狩野川を経由して駿河湾に繋がる「河川を利用した輸送路」の存在が考えられます。

河川を利用した輸送路  
 現在、物資を運ぶ方法としては、トラック等の車の利用が一般的です。では、車のない奈良・平安時代は、どうだったでしょうか。  
 奈良・平安時代、隣の駿河国と伊豆国を結ぶ官道(現在の国道のような道)は整備され、物資は、この官道を利用して、人や牛が背に担いで運び、また荷車で輸送していました。しかし、この方法では一度に運ぶ量が限られます。大量輸送の方法として効率的なのは、地理的条件にもよりますが、河川を利用する水運でしょう。  
 伊勢堰遺跡・箱根田遺跡は、駿河湾から狩野川、大場川や御殿川を利用し、伊豆国府に繋がる水運ネットワークの中間点に位置し、同地は物資の集積・積み替えを行う中継地、川の港“津”でした。

【平成20年 広報みしま 7月1日号 掲載記事】