(第310号)近代化を支えた三島の製糸関係資料 (平成26年3月1日号)

 郷土資料館の三階「三島の成り立ち体験学習室」では、三島の歴史について学ぶことのできる資料を多数展示しています。今回はその中から、明治時代の製糸業に関する資料を紹介します。  

 平成二十年に「明治日本の産業革命遺産」として韮山の反射炉などがユネスコの世界遺産暫定一覧表に登録され、日本の近代化を担った産業遺産が注目を集めています。日本の近代化を支えた産業の中でも製糸業は、外貨獲得のための主要な輸出品として日本全国で盛んに行われていました。  

 明治以降、三島でも農村では副業として養蚕が盛んになり、町中には川沿いに製糸工場が建ちました。  

 農家で収穫した繭は市場や問屋に集められ、仲買人を経て製糸場へと送られます。写真①は繭問屋での取り引きの様子です。  

写真1繭取引の様子 現在の本町 明治42年
写真1繭取引の様子 現在の本町 明治42年

 製糸場で作られた生糸は、横浜港などから外国へと輸出されました。写真②は、三島にあった波多野製糸(神川製糸)が横浜商人を通じて生糸を輸出した際の代金が記されています。約二百八十キロの生糸を四千円近くで売ったことがわかります。  

写真2生糸輸出代金仕切書
写真2生糸輸出代金仕切書

 写真③は、三島の裏町(三嶋大社西側あたり)にあった藤秀館製糸場で使用されていた輸出用の生糸ラベルです。流水に桜という日本らしいデザインとアルファベットの組み合わせです。  

写真3生糸ラベル
写真3生糸ラベル

 明治中期から繁栄した三島の製糸業ですが、中・小規模の工場が多かったため、大量生産できる大規模工場におされてその多くは大正末ごろまでに操業を停止していきました。前述の藤秀館製糸場も、一時は伊豆三大製糸に数えられるほどでしたが、明治末に廃業しています。  

 養蚕・製糸業の発展は、宿場の衰退によってさびれていた明治時代の三島に経済的活気を取り戻すものでした。  

 郷土資料館三階「三島の成り立ち体験学習室」では、明治・大正時代の三島の産業を資料やパネルで学ぶことができます。ぜひ足を運んでみてください。
【平成26年 広報みしま 3月1日号 掲載記事】