(第355号)昭和の風景--「三島競馬場」のにぎわい--(平成29年12月1日号)

  かつて三島と長泉の境には「三島競馬場」という名称の常設の地方競馬場がありました。今回はこの「三島競馬場」について紹介します。

 昭和十五年(一九四〇)に三島町(現在の三島市)が発行した『観光の三島』というガイドブックには、多くの男女でにぎわう「三島競馬場」の写真が掲載されています。この競馬場は、もと伊豆長岡町(現伊豆の国市) の古奈にあった「長岡競馬場」が長泉村竹原(現長泉町竹原)に移転してできたもので、昭和十二年十月十三日に第一回公認競馬が行われました。  

 今日の競馬につながる近代競馬は、江戸時代の末に日本へもたらされたものです。最初に本格的な競馬場が作られたのは横浜で、その経営主体は在留外国人でした。明治時代の末になると、軍馬の品種改良・増産・育成を目指す国策とかかわって、日本人が経営する競馬場が全国で営まれるようになり、競馬ブームが到来します。その後、紆余曲折を経ながら競馬は娯楽の一つとして社会に定着していきました。  

 さて「三島競馬場」は、一周一二〇〇m、幅二七メートルのコースを有し、馬券発売所、階段式の観覧席、食堂などを併設していました。昭和十四年二月二十四日の新聞『静岡新報』には、前日に最終日を迎えた三島春季競馬大会が、県内地方競馬始まって以来の売上げを出したと報じていて、大いににぎわった様子が想像されます。


三島競馬場
▲『観光の三島』に掲載されていた三島競馬場の写真
 
     
 しかし太平洋戦争が始まり、戦況が激化すると、競馬の開催は不可能になってしまいました。さらに昭和二十年七月十七日の沼津空襲ではこの競技場も焼夷弾の投下をうけ、観覧席が全焼してしまいます。戦後、「三島競馬場」が再建を遂げるのは、昭和二十二年のことでした。翌二十三年十一月五日の『静岡新聞』には、「三島競馬場」で初めて県営競馬が開催されたことが報じられています。  

 このように、ふたたび三島周辺の市町村の人々に熱狂と興奮のひとときを提供した「三島競馬場」でしたが、ほかの娯楽におされ、次第に業績が悪化して、昭和三十一年に廃止されてしまいました。かつて人々でにぎわった競馬場跡地には、現在、竹原グラウンド、知徳高等学校などがあります。

【広報みしま 平成29年12月1日号掲載記事】