(第362号)ふるさと探訪 錦田地域 塚原新田(平成30年7月1日号)

今回は三島の村々にスポットをあてる“ふるさと探訪”シリーズの続きとして、錦田地域の塚原新田を特集します。


東海道箱根西坂の入口に位置する塚原新田は、江戸時代の初めに成立した「坂五ヶ新田」の一つです。幕府が箱根山越えのルートを整備するなかで、周辺の村々の二男・三男を募り、村づくりを進めさせて成立した村です。この「塚原」という名前は、村内に荒れた塚(土を小高く盛って築いた墓)が多かったことにより名づけられたといわれています。

江戸時代の塚原新田の人たちは、山を開拓した畑で農業を営むかたわら、箱根路を行く旅人を相手に商売を営んだり、労働力を提供することで生計を立てていました。茶屋・木賃宿(きちんやど、薪代だけを支払って食事は自炊でまかなう宿)の経営や人足・駕籠かきといった物・人の輸送業に携わっていたようです。

さて、塚原新田のほぼ中央に、「普門庵(ふもんあん)」と呼ばれるお堂があります。江戸時代には神奈川県伊勢原市にある天台宗寺院浄発願寺の末寺でした。本尊は観音菩薩の坐像です。江戸時代の中ごろ、元禄年間(一六八八~一七〇四)あたりに造られたと考えられていて、左手に蓮華の蕾を持ち、右手はそれに添える形をとる穏やかな像です。この普門庵の創建については二つの説が伝わっています。

一つめの説は、鉄牛という人物の奇跡を発端とする伝承です。鉄牛が観音像を背負って京都を目指した際、塚原新田で休憩をとりました。ふたたび歩き出そうとしたところ、だんだん観音像が重くなっていき、一歩も動けなくなってしまいました。そこで鉄牛は、「これは観音様がこの地に留まることを望まれているのだろう」と悟り、お堂を建て、本尊として安置したことにはじまる、というものです。

二つめの説は、浄発願寺の住職の奇跡を発端とするものです。東海道を旅していた住職は、箱根の山越えで塚原新田を通過しました。そのとき北東方向に五光を発する金の像を見つけ、お堂を建てて本尊として安置した、というものです。

この二つの説のどちらが史実に近いのか、今となってはわかりませんが、普門庵の本尊の観音菩薩像は長い時を経て現在もなお、変わることなく塚原新田の人々に大切にされています。普門庵では月に一度、地元の女性たちが集まり、念仏を唱える観音講が行われています。講の定員は定められていて、欠員が出たら新しい人が加わるなど、昔からの方法で観音菩薩を守り伝えています。

【広報みしま 平成30年7月1日号掲載記事】