(第378号)箱根八里の盗難事件(令和元年11月1日号)

 郷土資料館で開催中の企画展「絵図・古文書で見る箱根八里」に関連して、箱根路で起こった旗本宮城氏の荷物盗難事件について紹介します。

 三島宿久保町(現中央町)に住む伝作は三島宿から荷物の運送を請け負っている運送業者でした。彼は吉原宿出身の甚八という者を雇っていました。甚八は吉原宿の近くの村出身であるといっていますが、伝作も詳しい身元は把握していませんでした。それでも五年間雇ってきたため、伝作は甚八のことを信頼できる人間だと思っていたようです。

 享保6年(1721)4月23日の朝、伝作は旗本宮城氏の荷物を箱根宿まで運ぶ仕事を請け負います。本来、このような公的な荷物の運送は伝馬役(てんまやく)と呼ばれる宿場住人に課せられた義務であり、住民が交替で引き受けなければならないものでした。しかし、江戸時代半ばのこの頃には運送業者が宿場から賃金を得て請け負う場合が増えていたようです。

 問屋場(荷物を引き継ぐ事務所で、三島宿では久保町に置かれていた)で旗本宮城氏の荷物を請け負った伝作は少し行ったところで荷物を甚八に渡していったん別れます。しかし、直後に雨が降ってきたため、雨具を持って甚八を追いかけました。街はずれで追いつくと、甚八は荷物を持っておらず、甚八のよく知っている新兵衛という者に荷物を運ばせた、といいます。そのため、甚八には別の賃荷物を小田原に運ばせることとし、改めて三島宿を発たせました。

 その後、旗本宮城氏の荷物が箱根宿に届いていないことが判明します。三島宿から大勢の人を出して捜索すると、五本松あたり(現在の国道1号沿いの松並木西端あたり)から街道を南に入ったところにある芝原で空になった箱だけが見つかりました。伝作は責任者として捕縛されますが、甚八・新兵衛は行方知れずとなります。東海道はもちろん、美濃路(中山道と東海道を結ぶ岐阜・愛知県内の道)、駿河国、相模国、伊豆国中の浦々・山の奥まで手配を回しますが、ついに行方をつかむことはできませんでした。

 結局、荷物も犯人も見つからなかったため、2ヶ月後の7月26日、三島宿が30両で弁償して事件は収束します。

 伝作は甚八の身元を確認しておらず、新兵衛に至っては名前すら知らなかったようです。公務といってもよい伝馬役(てんまやく)を請け負うにしてはずいぶんいい加減なものだと思えますが、このような者に頼らなければならないほど江戸時代の交通量の増加は激しく、また、箱根八里の往来が大変なものだったということでしょうか。

 
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覚

旗本宮城氏が三島宿から30両を受け取ったことを示す覚書



【広報みしま 令和元年11月1日号掲載記事】