(第416号)富士を詠む俳人―瀧の本連水―(令和5年2月1日号)

 郷土資料館で開催予定の企画展にちなみ、今回はある俳人をご紹介します。

 戦乱の世が終わり安定的な世の中になった江戸時代は、経済が発展し、さまざまな文化が庶民にも広がった時代です。現在の三島市域は、江戸時代には、東海道の宿場町として栄えた三島宿とその周辺に広がる豊かな 農村地帯であり、この地でもさまざまな文化的活動が行われました。そのうちの一つが俳諧(はいかい)です。

 俳諧とは、連歌(れんが:複数人で歌をつなげて詠んでいく文芸)から派生した文芸で、滑稽(こっけい)さやおかしみのあるものを指した「俳諧連歌」が、江戸時代に庶民にも広がり「俳諧」と呼ばれるようになったものです。元々は連歌と同じく複数人でつなげていくものでしたが、次第に「発句(ほっく)」と呼ばれる最初の「五七五」が独立していきました。この発句を「俳句」として確立したのが、明治時代の正岡子規(まさおか しき)です。江戸時代から明治にかけて、ここ三島にも俳諧で名をはせる人物が生まれました。そのうちの一人が瀧の本連水(たきのもと れんすい)です。

 連水は本名を勝俣猶右衛門(かつまた なおえもん)といい、天保3年(1832)に佐野村(現在の三島市佐野)で代々名主をつとめた家に生まれました。連水も家を継ぎ、名主をつとめています。勝俣家は大変な蔵書家で、現在勝俣文庫(当館蔵)として伝わっているその蔵書は、江戸時代に個人が収集した蔵書としては屈指の規模を誇ると注目されています。その内容は古典文学や歴史書、当時流行の小説など多岐にわたり、このような幅広い読書歴が、連水の創作活動の源の一つとなったのかもしれません。  
 連水がいつから俳諧の道に進んだのかははっきりしていませんが、若いころに当時江戸で大成していた三島出身の俳人・孤山堂卓郎(こざんどう たくろう)に師事し、後に沼津の種玉庵連山(しゅぎょくあん れんざん)に入門しました。連山は、(東海道を旅する俳人が立ち寄る)俳諧の関所を意味する「俳関」を自称していましたが、晩年「俳関」の額を連水にゆずり、自分の後継としました。連水の門人帳には、駿河・伊豆を中心に、遠く相模や信濃の門人も名を連ねており、連水の旺盛な指導ぶりがうかがえます。

 連水は富士山をモチーフとした句を多く詠みました。明治26年(1893)には、富士山を詠んだ句だけを百句収録した『雲霧集』を出版しています。

 写真は、今回展示するうちのひとつで、「ふじあらむ かきりはにほへ 国の花」という一句に、富士山の絵が添えられています。シンプルながら力強い筆運びで、富士山の雄大さを感じる作品です。

関守敏氏所蔵瀧の本連水掛軸

▲瀧の本連水掛軸(関守敏氏蔵)

                                【広報みしま 令和5年度2月1日号掲載】