(第437号)戦争で失われた梵鐘(ぼんしょう)と「時の鐘」(令和7年7月1日号)
今年は終戦から80年を経た節目の年にあたります。戦時下において、軍事上必要とされる物資の充足は、なにより優先されました。資源(特に金属)のとぼしい日本では、それをどのようにして確保するかが課題となっており、官・民から多くの金属製品が回収されました。
日中戦争がはじまった昭和12年(1937)、政府は回収機構を整えて、鉄くず(廃品)の回収をはじめました。そして戦況が泥沼化していくと、官公署の備品を中心に、廃品の回収だけでなく、非利用品(廃品ではないけれど使っていない金属製品)の回収の徹底を呼びかけるようになりました。
16年には金属回収がより強力に推進されることになり、全国的な回収体制が整えられ、国民から直接資源を回収するようになります。この時点ではまだ工場・事業所に重点が置かれており、一般家庭については代替不可能な必需品は対象外とされましたが、同年12月に太平洋戦争が開戦したことで、事態はより逼迫(ひっぱく)したものとなっていきました。
神社・寺院・教会などからの回収は、すでに一部で行われていましたが、昭和17年に「特別回収実施要項」が公表され、直接信仰・礼拝の対象となるもの、歴史上・美術上、または由緒の上で特に保存の必要があるものを除いて、供出するよう通達されたことで、より強制的に進められることとなりました。
17年末、三島市域(中郷村合併以前)からは、寺院の14の梵鐘と江戸時代に三島宿で時を報(し)らせた「時の鐘」(宝暦11年〈1761〉鋳造〈ちゅうぞう〉。三石神社境内に現存の鐘は昭和25年鋳造のもの)が供出されています。
この時、写真撮影が行われており、山と積まれた金属製品を背景に鐘を一点ずつ撮影した写真が遺(のこ)っています(写真1)。また拓本もとられたらしく、「昭和十七年末供出 梵鐘托本写(ぼんしょうたくほんうつし)〈仮綴〉(かりつづり)」(三島市役所作成、写真2)には、それぞれの拓本の銘文が書き写されています。同 資料を見ていくと、明治・大正鋳造のものが各1口あり、残り13口は江戸時代に鋳造されたものであったことがわかります。
これら資料からは、写真と拓本という二つの方法でその姿をなんとか後世に伝えようとする当時の人々の複雑な心情がうかがえます。
【広報みしま令和7年7月1日号掲載】
日中戦争がはじまった昭和12年(1937)、政府は回収機構を整えて、鉄くず(廃品)の回収をはじめました。そして戦況が泥沼化していくと、官公署の備品を中心に、廃品の回収だけでなく、非利用品(廃品ではないけれど使っていない金属製品)の回収の徹底を呼びかけるようになりました。
16年には金属回収がより強力に推進されることになり、全国的な回収体制が整えられ、国民から直接資源を回収するようになります。この時点ではまだ工場・事業所に重点が置かれており、一般家庭については代替不可能な必需品は対象外とされましたが、同年12月に太平洋戦争が開戦したことで、事態はより逼迫(ひっぱく)したものとなっていきました。
神社・寺院・教会などからの回収は、すでに一部で行われていましたが、昭和17年に「特別回収実施要項」が公表され、直接信仰・礼拝の対象となるもの、歴史上・美術上、または由緒の上で特に保存の必要があるものを除いて、供出するよう通達されたことで、より強制的に進められることとなりました。
17年末、三島市域(中郷村合併以前)からは、寺院の14の梵鐘と江戸時代に三島宿で時を報(し)らせた「時の鐘」(宝暦11年〈1761〉鋳造〈ちゅうぞう〉。三石神社境内に現存の鐘は昭和25年鋳造のもの)が供出されています。
この時、写真撮影が行われており、山と積まれた金属製品を背景に鐘を一点ずつ撮影した写真が遺(のこ)っています(写真1)。また拓本もとられたらしく、「昭和十七年末供出 梵鐘托本写(ぼんしょうたくほんうつし)〈仮綴〉(かりつづり)」(三島市役所作成、写真2)には、それぞれの拓本の銘文が書き写されています。同 資料を見ていくと、明治・大正鋳造のものが各1口あり、残り13口は江戸時代に鋳造されたものであったことがわかります。

写真1:供出された「時の鐘」

写真2:「昭和十七年末供出梵鐘托本写〈仮綴〉」
これら資料からは、写真と拓本という二つの方法でその姿をなんとか後世に伝えようとする当時の人々の複雑な心情がうかがえます。
【広報みしま令和7年7月1日号掲載】