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旧暦で天正18年(1590)3月29日は山中城で合戦の行われた日で、現在の五月上旬にあたります。この城攻めで一番槍いちばんやりの手柄を上げたのが中村一氏(なかむら かずうじ)配下の渡辺勘兵衛(わたなべ かんべえ)です。勘兵衛の目覚ましい活躍は『歴史の小箱』で何度も紹介していますが、彼の進軍ルートには諸説あります。
この渡辺勘兵衛は、戦国時代末期の有名な渡り奉公人(わたりほうこうにん)でした。渡り奉公人とは、自分の才能を正当に評価して高い報酬を与えてくれる主君に次々と仕えていく武士のことで、戦国大名はこうした才能ある人材を競って召し抱えました。高い収入や地位を目指して転職を繰り返すサラリーマンや有能な人材をヘッドハンティングする企業など、現代社会と相通じるものがあります。
さて山中城の合戦で大手柄を立てた勘兵衛ですが、人並みの恩賞では待遇に不満があるとして、中村家を去りました。その後は増田長盛(ました ながもり)に仕えて関ケ原の合戦では奈良県の大和郡山城に籠城(ろうじょう)して見事な指揮を執り、さらに藤堂高虎(とうどう たかとら)に仕えて愛媛県の今治城(いまばりじょう)の築城奉行を務めたと伝わっています。今治城鉄御門(くろがねごもん)前の石垣に城の権威を示すために据えた巨石は、「勘兵衛石」と呼ばれています。
このように順調に出世を遂げた勘兵衛ですが、大坂の陣の後に高虎と折り合いが悪くなり藤堂家を出奔(しゅっぽん)しました。この時高虎が、他家への出仕(しゅっし)を禁止する「奉公構え(ほうこうがまえ)」を科したため、その後は仕官が叶うことなく、牢人(浪人)のまま京都で79年の生涯を閉じたと伝わっています。

今治城鉄御門前の「勘兵衛石」
(広報みしま令和8年5月号掲載)