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(第450号)三島出身の俳人、孤山堂卓郎(令和8年3月号)

ページID:0032747 更新日:2026年5月27日更新 印刷ページ表示

 孤山堂卓郎(こざんどう たくろう)は本名を小林久助といい、寛政10年(1798)に三島宿伝馬(てんま)町(現在の大社町)の商家で生まれました。家業は継がず、十代で江戸へ出て俳諧(はいかい)の道へ進みました。そこで師となる大梅居(だいばいきょ)孤山( 児島大梅〈こじま だいばい〉)と出会い、頭角を現します。孤山には多くの門人がいましたが、中でも卓郎には目をかけ、「大梅居」の号を譲ろうとしたと伝えられます。しかし卓郎はこれを固辞し、師匠の死後、「孤山」のみを受け継いで孤山堂卓郎と名乗りました。師の孤山は梅の花を愛し、その気風は卓郎にも伝えられたといいます。

 天保元年(1830)には芭蕉ゆかりの奥州(おうしゅう)行脚(あんぎゃ)に出かけ、約10年を仙台で過ごしましたが、師匠の死後江戸へ戻り、以後江戸俳壇で活躍しました。江戸時代には相撲の番付になぞらえて俳人の番付も数多く作成されましたが、卓郎はたびたび上位に名を連ねています。

 当時の俳諧宗匠(はいかいそうしょう)は点者(てんじゃ)とも呼ばれ、句会などで参加者の句を評し点を付け、その報酬(点料)を得て生活していました。卓郎の俳諧宗匠としての名声が高まり、大名や旗本、豪商などとも交流を持ち屋敷を構えるようになると、その蓄財ぶりから、「ヨコサンドウブッタクロウ」といった強欲さを強調した辛辣なあだ名がつけられたこともあったそうです。一方で「正風(蕉風。松尾芭蕉やその弟子による作風で、幽玄、閑寂な境地を求め、芸術性を高めた)」を求め、芭蕉以降の俳諧史をまとめた『道の杖』を編纂するなど、俳諧に対して高い見識を持っていたことを、孫弟子であり自らも芭蕉をはじめとする俳諧史の研究に熱心であった贄川他石(にえかわ たせき、孤山堂他石)が伝えています。

 写真の掛軸は、当館が所蔵する卓郎の筆によるものです。流麗な筆運びが美しく、師の気風をひきついだといわれるように、梅が詠よみ込まれています。

 孤山堂卓郎と、その号を継いだ凌頂(りょうちょう、現在の三島市八反畑出身)・他石(現在の清水町的場出身)の孤山堂三代による作品は令和8年3月7日~5月31日開催の収蔵品展「バック・トゥ・ザ・ミシママチ!Part 2」でご覧いただけます。

孤山堂卓郎掛軸

孤山堂卓郎掛軸「立ならぶ柳はいはず月と梅 卓郎」(当館蔵)

(広報みしま 令和8年3月号掲載記事)

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