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(第453号)山中城跡の障子堀(令和8年9月号)

ページID:0036489 更新日:2026年9月1日更新 印刷ページ表示

山中城跡は、障子堀(しょうじぼり)を間近に見学できる山城(やまじろ)跡として知られて います。江戸時代の軍学書には堀障子(ほりしょうじ)という言葉が出てきますが、これがどのような形状のものか、実態は分かっていませんでした。山中城跡の発掘調査で、堀の中に区画を区切るような畝跡(うねあと、堀障子)が初めて見つかり、この堀障子が並んでいる堀の形状を調査責任者が障子堀と名付けたのです。

発掘直後の障子堀は、畝の上がカマボコの背のように丸みを帯び、幅は35センチ程度のものでした(写真1)。畝から堀底までの深さは1.8メートルと人の背丈を超え、傾斜は約58度、ローム質の土を掘り下げてつくられています。
攻め手側は畝の上が狭いため、一列でしか攻めてこられません。守備側は畝の伸びる方向に弓や鉄砲の標準を定めて待ち構えていれば良いため、障子堀は守備側に、より有利な構造です。

山中城跡の整備では、築城当時の畝の保護のため畝全面に土を盛り、さらに芝を張っています。発掘直後のローム質の面をそのまま表面とすると、乾燥して壁面(へきめん)などがボロボロになり、崩れてしまうからです。また畝の上も生えてくる芝草の刈込み作業が安全に出来るよう、幅広で平たい形状で整備しています(写真2)。時々、障子堀の畝の上は幅が広くて平らで、歩きやすいのでは?と質問されますが、築城当時の畝は幅が狭く、上は丸みを帯びていました。守備側からの攻撃により、狭い畝の上でバランスを崩して堀底に落ちた敵兵は、堀壁面がツルツルのローム質の土のため、蟻地獄(ありじごく)に落ちたように脱出できませんでした。

西ノ丸障子堀検出時
(写真1)発掘直後の障子堀(昭和51年撮影)

 

西ノ丸西側障子堀再整備後
(写真2)復元後の障子堀(平成21年撮影)

(広報みしま 令和8年9月号掲載記事)

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